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「明日にかける橋」

数日前に、「明日にかける橋」についてテレビ番組があった。 女優さんが ニューヨークや南アフリカのこの歌に関連した場所に行き、いろんな人たちにインタビューをしていた。 サイモン&ガーファンクルが人気だった数十年前、この歌は大流行になった。きれいなメロディーで、なにか希望を与えられるように歌詞が魅力だった。私も、1番くらいは英語で口ずさむことができるほどだった。「水があふれそうな川に橋をかけましょう」くらいの内容と思いこんでいた。 番組から大きな衝撃を受けた。歌の意味をまったく理解していなかったことに気づかされた。リフレインの troubled water の意味は「荒波」、lay me down は「自分を横たえる」だから、「自らをささげる」「犠牲になる」の意味である。教壇から英語を教えたことがあるのに、歌を口ずさみながら何も考えていなかった。 作詞したポール・サイモンはアパルトヘイトで騒然としていた南アフリカに赴き、爆破するとの脅迫を受けながらコンサートを開き、この歌を歌ったとのこと。私は、南アフリカのアパルトヘイトについても無知だったし、この歌の社会性など、全く気付いていなかった。 ポールは,ゴスペル・ソング(黒人霊歌)「Oh, Mary, Don’t You Weep」の歌詞にヒントを得てこの曲を作詞・作曲したことを知った。 「Oh, Mary」 の中の一節「Bridge Over Deep Water」を「Bridge Over Troubled Water」として歌詞に入れ,歌の題名にしたそうである。 「Oh, Mary, Don’t You Weep」1番の歌詞は、次のようである。  Oh Mary, don't you weep,  don't you mourn  Oh Mary, don't you weep,  don't you mourn  Pharoah's army got drownded  Oh Mary don't you weep  おおマリア 泣くでない  嘆くでない  ファラオの軍は海に沈んだのだ  おおマリア 泣くでない イエスの母マリアに呼びかける形で、泣く人、嘆く人に語りかけている。リフレインになっている「ファラオ」以下は、聖書に記載される出エジプトの出来事を指す。エジプトで...

マロン・グラッセの思い出

私には3歳年下の弟がいる。彼がようやく一人で歩けるようになったころ、寝ころんでいた私の顔に向かってシャ――ッとおしっこをかけた。それが私と彼の喧嘩の始まりだったと思う。取っくみ合いをはじめとし、棒やほうきをもって追っかけまわす、などなど。喧嘩が絶えなかった。下の弟の出産のため、母が入院しているとき、父は見舞いに行くたび、私たち二人を連れて行っていた。ある時、母は「この子たちは喧嘩ばかりするから、もう連れてこないで」と言った。 高校生くらいになると、腕力ではかなわなくなってきた。彼は、蔵の一階を模型飛行機を作るために使っていた。飛行機を組み立て、河原などに行ってリモコンで飛ばすのである。あるとき、私は蔵に行って、出来上がっていた飛行機一機を踏みつぶした。父が勤めから帰ってきたとき、弟が父に「姉貴が飛行機をこわした」と告げ口した。父は、「おまえが殴るか、けるかしたのだろう」と取り合わなかった。 私が大学に入って寄宿生活をするようになってから、二人の関係が変わり始めた。あるとき、マッチ箱サイズの郵便小包が弟から届いた。包みを開くと、文字通り、マッチ箱が出てきた。箱の中には、銀紙に包まれた栗が1つ。栗は白く固まったお砂糖にくるまれ、口に入れると、甘くお酒の味がした。半世紀以上昔のことである。今でいうマロン・グラッセだったのだろう。弟のメモが入っていて、「おいしいものをもらったから、一つ送る」とあった。 今年の秋は駆け足で終わりそうになり、マロン・グラッセの広告を見かけるようになった。マロン・グラッセという言葉を見るたび、私はマッチ箱入りの栗を思い出す。 (ちなみに弟は私がブログを書いていることを知らない。)

谷内六郎の机

録画予約をしようとテレビをつけたら、日曜美術館の終りかけの部分だった。ふと目に入った絵に惹かれて、残りの10分間ほどを見ていて、なんだか別世界に連れていかれたような感じが残った。谷内六郎の絵だった。そういえば昔、雑誌の表紙で見慣れた気がするが、じっくり一つの絵を眺めたことがなかった。TVが映し出す一枚一枚をゆっくり見ていると、しみじみと伝わってくる。もっと見たいと思い、『谷内六郎 いつか見た夢』(新潮社)を購入した。 「南風の歌」いうタイトルの絵では、木々の枝がピアノを弾いている。それに次のような言葉がそえられている。 輝くばかりのしずくが陽に光り、芽たちは喜びにゆれ、雲はピアノのキーのように白くのびて、木々の枝は名演奏家の手のように天に向かって手をのばし春のうたをかなでているかのようです。 人はだれでも小さい時、こんなような感覚、自分だけしかわからない宝石のような大切な感覚を味わう時がきっと一度や二度はあると思うのです。それを表現する職業の人(芸術家)でなくとも、みんなそういう体験感覚を一生もっていて、時々想い出していると思うのです。 彼の絵は、だれもがもっているけれど、ふだんはすっかり忘れている、その「体験感覚」を想い出すきっかけをくれる気がする。 上記の本に、谷内が幼い娘の広美さんを抱っこして、食卓で仕事をしている写真が載せられている。これが彼のふつうの制作スタイルだったそうである。彼の作品は、おさな児のこころを体で感じながら描かれたのであろう。 向田邦子が、原稿を書こうと机に向かうと眠くなる、と書いている。「不思議なもので、これが食卓だと、机ほど眠くならない。鍋敷きや醤油注ぎのそばにひろげる原稿用紙は、傑作は生まれない代わり、肩ひじ張らず気楽に物が言えそうで、すこし気が楽になるのであろう。」(『無名仮名人名簿』231頁) 谷内六郎の絵と向田邦子の文章のもつぬくもりは、家族でかこむ食卓のぬくもりなのだろう。

小鳥のことば

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幸いにも私は自然に恵まれた地域に住んでいる。あたりに木々も多く、春にはウグイスのへたくそな「ケキョ」に始まり、数週間で「ホーホケキョ」に上達するまで聞かせてもらえる。初夏になれば、「トッキョキョカキョク」とホトトギスが鳴く。彼らの姿を見たことはないが、ヤマガラやシジュウカラは、庭の木に姿を見せてくれる。ヤマガラは人間になつきやすいらしく、私の手から麻の実を食べるようになった。ただ、野鳥の会の知人によると、餌付けをすると、小鳥が自然から餌をとる力を失わせるとのことで、すぐにやめた。 彼らにことばがあるとは、「小鳥の鳴き声にも『文法』」という新聞記事(8月31の朝日朝刊)を読むまで思ったことがなかった。動物行動学専門の鈴木俊貴さんという方の研究の結果についての記事だった。少し長い記事を以下に抜粋させていただいた。 小鳥のシジュウカラは鳴き声を複雑に使い分ける。ヘビなら「ジャージャー」、タカでは「ヒーヒー」。シジュウカラに、録音しておいた「ジャージャー」を聞かせてみると、地面を見たり茂みをのぞいたり、ヘビが潜む場所を探すかのようにふるまう。 天敵であるモズのはく製を木の枝に置くと、逃げるのでなく、仲間を集めて追い払おうとする。その号令は「ピーツピ・ヂヂヂ」。 「ピーツピ」は「警戒しろ」、「 ヂヂヂ」は「集まれ」で、単独でも使われるが、これらを組み合わせて鳴く。 その結果、仲間のシジュウカラは、モズを追い払うべく警戒態勢で集まってくる。 「ヂヂヂ・ ピーツピ 」にすると、伝わらない。語順も重要である。 シジュウカラの言葉がわかるのは、私だけではない。周りで暮らすスズメやメジロ、ヤマガラなどの鳥たちも、シジュウカラ語を学習し、理解している。 シジュウカラには感情、記憶力、判断力、行動力、仲間を思う心、などなどがあるのだ。私は、自然界には序列があって、人間はその頂点に立っているような気でいた。そうではなくて、みんな仲間なのだと気づかされた。

鳥居を通って昇る太陽

秋分の日、鳥居の真ん中を太陽が昇る神社について、9月26日の朝日新聞朝刊に記事があった。一般的に神社は南向きが多いが、この神社は真東を向いているとのこと。日の出の瞬間、太陽光は鳥居の真ん中を通り、奥にある本殿まで届く。浜松市にある六所神社という名で、地元の郷土史家の小杉順哉さんによって、9月23日に確認されたという。鳥居に「朝日宮」 の名があり、小杉さんは「どこに朝日と関係があるんだろう」と思い続けていたそうである。  メキシコのピラミッドの階段に、 春分の日と秋分の日の夕暮れ、 太陽がヘビのような影を投げかけるという話を聞いたことがある。 1000年以上前に古代マヤ文明によって建てられたピラミッドとかで、すごいな、と思っていた。天文学的知識と建造物とが結びついている。 それと同類の建物が、日本の、それも私が住んでいる静岡県内にあると知り、なんだか嬉しくなる。この 神社の正確な資料は残されていないものの、927年に全国の神社をまとめた「延喜式神名帳」に記載のある「朝日波多加(はたか)神社」の候補の一つとみられるという。もしそうであれば、マヤのピラミッドと同年代に建てられたことになる。 六所神社や近辺地域に資料も言い伝えも残っていないのは、1000年とまでいかなくとも、ずっと時代をさかのぼるからであろう。 この神社が示す天文学的知識は、 人々が自然の神秘と恵みに畏敬と感謝の念をもって建造したであろうことを思わせる。この神社だけのものとは考えられない。もしかすると日本の他の地域でも同類の神社やお寺があるのではないか。知られていないだけなのではなかろうか。 動揺の神社やお寺がほかにも

ひとつのことば

 「ひとつのことば」という北原白秋作の詩を知った。     ひとつのことばで けんかして    ひとつのことばで なかなおり    ひとつのことばで 頭が下がり    ひとつのことばで 心が痛む    ひとつのことばで 楽しく笑い    ひとつのことばで 泣かされる    ひとつのことばは それぞれに    ひとつのこころを 持っている    きれいなことばは きれいな心    やさしいことばは やさしい心    ひとつのことばを 大切に    ひとつのことばを 美しく 一つの言葉をいつも大切にして、美しい言葉を言いたいと思う。でも私の現実は、きつい言葉は簡単に、瞬間的に口から飛び出す。そのくせ、「嬉しかった」とか「好きよ」とか、やさしい言葉の方が、言いづらい。照れくさくて、あまり言ったこともない。 もう亡くなった下の弟が、生前、晩酌でいい気分になった頃に電話をかけてくることがあった。あれこれ、なんとないことを話した後、「お姉ちゃん、愛してるよ」と言うことが、何度かあった。私もつられて「私も愛してるよ」と言った。そのあとは、「おやすみ」「おやすみ」で電話を切った。 「私も愛してるよ」は、弟の酔いに乗った感じだったが、事実だった。弟が生まれたときに、母は産後の肥立ちが悪く、1週間ほど後に亡くなった。私が9歳の時だった。それから同居していた祖母と一緒に、弟に哺乳瓶でミルクを飲ませたりしたから、母親気分もあったと思う。それにしても、弟のほろ酔い気分につられてでなければ、絶対、口にしなかっただろう。 弟が残してくれた言葉を思い出すと、嬉しくなる。

井の中の蛙の復権

「井の中の蛙、大海を知らず。されど」の続きが気になって、ネットで検索してみた。まず「井の中の蛙、大海を知らず」は、 『荘子』秋水篇にでている故事に 由来し、 見識の狭いことを意味するという点で、一致している。 つづく「されど」以下には、「されど空の蒼さを知る」 「されど天の高きを知る」「されど地の深さを知る」「ただ天の広さを知る」などがあげられている。この部分は、 中国から伝わったのではなく、 日本に伝わった後に付け加えられたもの とされている(例を多くあげている TRANS.Biz編集部チームのサイトより) 。 「されど」で始まるのだから、続く部分は、井戸の外の蛙ができないことでなけらばならない。とすると、上例のうち「地の深さを知る」だけである。 上記の例以外は、ネットで見つけることができなかった。私のパソコンのなかに、別の可能性を示す文章がある。速水御舟の娘であった故・速水彌生さんが、生前、三島カトリック教会報に書かれた短い文のなかで、次のように記されている。 日本には昔からいろいろと素晴らしい言い伝えがあり、それらは私たちの祈りの心を養い育ててくれるように思います。 その一つは、「 ※ 井の中の蛙 大海を知らず されど 天の星を見る」です。 2008年に 書かれたもので、 当時、教会報を編集していた方が次のような 脚注 ※ を 付けている。 深い井戸を掘り、その底に降り立つことができると、空の青さを知ることができる、空の青さの中に昼の星も見ることができるという意味があるそうです。実際、井戸掘り職人の話では、深い井戸の底からまっすぐ天を仰ぐと、太陽の散乱光の影響がなくなり、昼間でも星が見えることがあるそうです。 井戸の底からは日中でも星を見ることができるのだろうか。この点については、以下のサイトが参考になる。科学的な説明、実際見たことがある個人の記事、などなどが、列挙されている。 深い井戸の底だと昼間でも星が見える? -カテ違いでしたらすいません!- 宇宙科学・天文学・天気 | 教えて!goo  これが事実だとすると、井戸の底にいる蛙は、昼間にも星が見えることになる。 百歩譲って、そんなことができるはずがないとして、 考えることもできる。夜はどうだろうか。井戸の外の蛙も、中の蛙も、夜空の星が見えるだろう。しかし、違いがある。井戸の外の蛙には、広い夜空が見えるだろ...

プレバト・ファンです

ここ数年、テレビでプレバトを毎週必ず見る。見落とすといけないので、毎回、録画予約をする。1時間番組であるが、それ全体に興味があるわけではない。番組の半分は必ず俳句。あと半分は、消しゴムはんこ、水彩画、スプレイアート、生け花など、週によって変わる。 私が興味があるのは俳句の部分である。 出されていたお題に対して、5,6人の芸能人や有名人が俳句を提出する。まず、MCの浜田が作者に、どういう気持で、何を言いたいのかをたずねる。それを聞いてから、夏井いつき先生が必要な添削をする。句が新しくなると、見ている私も、爽快さを感じる。言わんとすることが、パッキリ表現されている心地よさである。 何週間か前の番組で、お題が「宿題」であったとき、梅沢冨美男が次のような句を出した。  「白秋や 漢字ドリルに 書く名前」 この句について、梅沢は、次のように言った。「俳句をやりたいが、この年になって読めない漢字がいっぱいあった。それからお勉強をした。いろんなドリルを買った。小学生のドリル、中学生のドリル。自分のための宿題だった。『白秋』は自分の人生の秋にかけました。」 梅沢は70歳になる。幼いときから父の大衆劇団に出演し、中卒である。梅沢の話を聴いた夏井先生は、「俳句はさておき、オッチャン(=梅沢)の向学心に感銘を受けました。オッチャンの俳句に、小学生・中学生のファンが多いのもわかります」と言い、俳句については、「じいさんなら、じいさんらしく」とコメントした。季語「白秋」は、とてもいいが、小学生の詠んだ句とも取れる。そして、次のように添削した。  「漢字ドリルに 白秋の 我が名記す」 夏井先生の添削に文句を言うこともある梅沢であるが、これには納得のようすであった。見ている私も、スッキリ! 梅沢の向学心には、私も感銘を受けた。

きゅうり=黄瓜!

新聞にキュウリについての記事があった。キュウリの語源は黄瓜だとか。びっくり!!!キュウリが熟した状態では黄色いとかで、そこから来た言葉だそうである。キュウリはあのグリーン色しか知らない。黄色くなることも知らなかった。当たり前と思っていたことが、そうではないことにびっくりさせられる。 最近読んでいる時代小説から、言葉の由来に気づかせられることが多い。読んでいるのは、高田郁作「あきない世傳」で、関西に生まれ育った主人公の女性が、江戸時代の呉服界で成長する姿を描いている。次のような箇所に出会った。 「吉次、 お手塩 を持ってきなはれ」  声を張って奥の弟子に命じると、菊次郎は餅を順に素手でひっくり返す。あちち、と耳たぶで指先の熱を冷まして…(中略)  折しも、吉次がお盆に 手塩皿 とお茶を乗せて運んできた。 子どもの頃、祖母が小皿をオテショウと呼んでいたことを思い出した。どういう意味なのか、ずっと頭の隅にひっかかっていたが、この箇所を読んで、なるほど、と思った。 小さなガラス瓶入りの塩がなかった時代、塩を小皿にのせて膳の隅に置いたのではないだろうか。とすると、手元に置く塩=「お手塩」である。それが同時に皿を意味するようになったと思われる。「お手塩」→「手塩皿」→「オテショウ」なのだろう。 この本を読んでいると、やはり関西生まれ育ちの私が使っていた言葉の意味が、今になってわかる。「あぁ、そうなんだ」という感じである。 例えば、女性の使用人を「おなごしさん」と呼んでいた。小説では、「女衆」と記されている。「おなご(=おんな)+衆」に由来するのだろう。よく真似をする人をマネシと言ったけれど、「真似衆」であったらしい。卑しい性格の人を意味するゲスは、「下種」と表記されている。浴衣は「湯帷子(=ユカタビラ)」から来るらしい。 物語としても面白いけれど、言葉の発見も楽しんでいる。

「ひとつの火」

新美南吉に「ひとつの火」という作品がある。   わたしが子供だったじぶん、わたしの家は、山のふもとの小さな村にありました。   わたしの家では、ちょうちんやろうそくを売っておりました。  ある晩のこと、ひとりのうしかいが、わたしの家でちょうちんとろうそくを買いました。  「ぼうや、すまないが、ろうそくに火をともしてくれ。」 と、うしかいがわたしにいいました。  わたしはまだマッチをすったことがありませんでした。  そこで、おっかなびっくり、マッチの棒の端の方をもってすりました。すると、棒のさきに青い火がともりました。  わたしはその火をろうそくにうつしてやりました。  「や、ありがとう。」 といって、うしかいは、火のともったちょうちんを牛のよこはらのところにつるして、いってしまいました。  わたしはひとりになってから考えました。  ――わたしのともしてやった火はどこまでゆくだろう。  あのうしかいは山の向こうの人だから、あの火も山を越えてゆくだろう。  山の中で、あのうしかいは、べつの村にゆくもう一人の旅人にゆくあうかも知れない。  するとその旅人は、  「すみませんが、その火をちょっとかしてください。」 といって、うしかいの火をかりて、じぶんのちょうちんにうつすだろう。  そしてこの旅人は、よっぴて山道をあるいてゆくだろう。  すると、この旅人は、たいこやかねをもったおおぜいのひとびとにあうかもしれない。  その人たちは、  「わたしたちの村のひとりの子供が、狐にばかされて村にかえってきません。それでわたしたちはさがしているのです。すみませんが、ちっとちょうちんに火をかしてください。」 といって、旅人から火をかり、みんなのちょうちんにつけるだろう。長いちょうちんやまるいちょうちんにつけるだろう。  そしてこの人たちは、かねやたいこをならして、やまやたにをさがしてゆくだろう。  わたしはいまでも、そのときわたしがうしかいのちょうちんにともしてやった火が、つぎからつぎへうつされて、どこかにともっているのではないか、とおもいます。 以上が全文である。この作品を読むと、なんだか嬉しくなってくる。もしかしたら、私も小さな火をともすことができるかもしれない、その火が次から次へとうつされることがあるかもしれない、と思わせられる。

みんなえいゆう

このごろラジオを聞きながら朝ご飯を食べることがある。先日の放送で、ゲストがリクエストした歌が「みんなえいゆう」だった。すでに知っている人が多いのだろうが、私は初めてだった。フォークダンスでよく使われる曲にのせて、楽しい歌詞が続く。聞いていると、ニヤニヤして、あるある、とか思ってしまう。聞いてみようと思う方は、下記をどうぞクリックしてください。 「みんながみんな英雄」 フルver AI【公式】 - YouTube ゲストのお名前は聞き取れなかったが、座右の銘が「一隅を照らす」だとおっしゃっていた。これを聞いて、なんだかホッとした。コロナの蔓延で、なるだけ外出しないように、なるだけ人との接触を避けるようにとなると、ここのところ、せま――い世界に住んでいる感じがしている。でも、そこだけ照らすことができればいいんだ。そうしたい、と思った。

井上洋治神父の思い出

井上洋治神父について若松英輔氏が書いておられる文章に出会った(『悲しみの秘儀』文春文庫)。 学生時代の終り頃ノイローゼになられた時のこと。若者と新約聖書を読む会を設けておられた井上神父に、彼は出口を失ってどうにもならない心情を吐露した。聖書のどこを読んでも光を見つけられない。そればかりか自分が救われないことだけがはっきりしてくる。そう語り、矛盾したことが述べられている箇所を挙げ、数十分にわたって一人で話し続けた。それに対して、神父 が次のように言ったとのことである。 「今日は、とてもすばらしい話を聞かせてもらいました。ありがとうございます。しかし、ひとつだけ感じたことがある。信仰とは頭で考えることではなく、生きてみることではないだろうか。知ることではなく、歩いてみることではないだろうか。」 「この一言が私を変えた。その日からゆっくりと病は癒え始め、しばらくして、文章を書くようになった」と書かれている。 この場面を想像してみた。数十分にわたって話し続ける若松青年の話を、神父はただ聞き流しておられたのではなかっただろう。全身を傾けて、彼の言葉を受け止めておられたに違いない。だからこそ、青年は数十分も続けて、すべてをさらけ出して、語ることができたのだろう。 「今日は、とてもすばらしい話を聞かせてもらいました。ありがとうございます」 という神父の言葉は、文字通りの、心からの言葉だっただろう。 この締めの言葉ののち、若松青年は新しく歩み始めたとのこと。よかったな、と思う一方、青年を癒したのは、井上神父の言葉だったのだろうか、という疑問が残った。言葉もあるだろうけれど、それに先立つ、井上神父の聴く力にあったのではないかと思われる。 こんなことを思うのは、私が若いころ、似たような体験をしたからかもしれない。終生誓願を立ててからのことだった。修道院の台所の給水機のそばで、私より若くて、まだ誓願も立てていないシスター(修道女)に向かって、くだくだと愚痴をこぼしていた。長く話していたように思う。話し終わった時、その人は、「シスター、おつらかったでしょう」と言ってくれた。その途端、私は壊れたレコードのように、この話を何十回も話してきたことに気づいた。そして、もう二度と繰り返す必要がないだろう、とも。 たぶん、聴く力には、癒す力があるのだろう。