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シスター山田の帰天

4月29日、シスター山田キミ子が帰天した。99歳だった。誕生日は1927年1月7日とされている。ただ、洗礼証明書の日付は12月27日だそうである。生まれてすぐに洗礼だったのではないかと考えると、誕生はそれ以前だっただろう。当時、生まれてすぐに数え年1歳で、元旦に2歳になるから、誕生日を遅らせて届けられたと考えられる。 私は現在の修道院に4年ほど前に移って、シスターと初めて出会った。そのころはまだ元気で、背中が曲がっていたけれど、歩行器も使わず歩くことができていた。年下のシスターで手足が不自由なを訪ねては、着替えを手伝ったりしていた。食堂では、食事の終わったお皿類を集めてキャスター付きミニ・テーブルにのせ、洗い場へ運んでいた。「足が痛いでしょうから、しなくていいですよ」というと、「私の仕事を取らないで」と言われるので、ありがたくしていただくことにしていた。 そのうち足も弱り、歩行器が必要になって、食事が配膳される食堂に移つられ、おしゃべりする機会もなくなった。 シスターは渋谷区でただ一人の被爆者手帳をもつ人だったと聞いている。長崎の原爆投下のときには、シスターは修道院に入っており、直接に被爆はしていない。原爆投下の3日後、長崎に戻った時には、家は瓦礫となり、家族は全員死亡。市役所に行き、涙が止まらず泣き続けたのを、受付の女性がずっと一緒にいてくれたそうである。 食べものもなく、その辺にあったカボチャを食べたところ、吐き気と下痢でおかしくなった。それで被爆したらしい。 戦後、シスターは東京聖心女子学院の低学年の生徒たちの課外の世話係を長年された。おもらしなどをした子どもを優しくなだめながらお世話なさったと言い伝えられている。 シスターの亡くなられた日の夜、皆でシスターをしのんで祈っているとき、私は涙があふれた。とても身近な人がいなくなった感じがした。 シスターの葬儀ミサのなかで、神父が 「シスターはいなくなったのではありません。神さまの世界に入ったのです。だから今、ここにいるのです。見えないだけです。」 と言われた。 「大丈夫、大丈夫」という、シスターの口癖が聞こえる気がする。

「神が右に・・・」

土曜日の夕方のミサに来てくださった神父は、3、40年前知っていた方だった。久しぶりだし見分けられるだろうか、と思っていた。やっぱり以前とはすっかり変わっていた。でっぷりと太り、髪の毛もずいぶん後退している。 ミサ中の説教で、彼は朗読の中にあった「主が私の右におられるので、私は決して動揺しない」という一節を取り上げ、右のこぶしを胸にあてて、「神が右におられる。恐れることがありません」と言った。 後になって、その言葉と彼のしぐさが思い出される。「神が右におられる」というと、私のイメージでは私の右に立っておられるのだが、なんだか心強くなる。

出会い

 構内を散歩していて、掃除しているおじさんに出会った。小柄な方で、私よりは若いだろうけれど、80歳に近いかと思った。落ち葉をのせた大きなリヤカーを押していた。何かお礼を言いたくて、「ありがとうございます」と言った。おじさんが何か言ったが、私は耳が遠くて、「え」と返すと、「風邪をひかないようにね」と。で、「おじさんもお元気でね」と言った。 夜ベッドに入ってから、例の「3 good things」をしようとしたら、一番にこのおじさんとの出会いを思い出した。一瞬のことだったけれど、おじさんの優しさが心に残っていたのだろう。

祈りを捧げる

修道院に入って以来、朝一時間、午後30分の黙想が習慣になっている。その時間に何をしているかというと、いろんな雑念が頭の中を行き来して、ぼーっと座っているだけが現状である。若いころ、祈りの時間は神さまの慰めというか、心が満たされるしあわせな時だった。近ごろはそんなことは全くない。若いころの慰めは、祈りに引き寄せるための甘いお菓子だったのかしら。 「ちっともいいこと、ありません」とつぶやいていて、ふと気が付いた。祈りは私が捧げるものだ。神さまから何かをもらうためにするものではない。修道院に入ることを願ったのも、重い病気をして神さまの愛を知り、神さまに自分を捧げようと願ったからだった。 「つたない祈りですが、お捧げします」と祈ればいいのだと気づいた。卒寿を迎えての気づき。ちょっと遅いかも。

「娘の成長」

お母さんが5歳のお嬢さんについて書かれた投稿記事「娘の成長」を読んだ。通勤の道すがら、お嬢さんを保育園まで送っていくときのこと。 ――ある朝、娘と登園途中に二人で空を眺めていると、分厚い雲の隙間から一筋の太陽の光が差し込んでいた。それを見て娘は「神様が下りてくる道じゃない?」と不思議なことを言った。  翌日はどんよりした雨模様の空だった。その日も娘は「神様、お風呂に入っているんじゃない?」  朝の忙しい時間に空を眺めて神様を想像できるわが子を見て、ふと「他と比べなくてもいいのかも」と思えた。――    毎日新聞朝刊4月4日 「わたしの気持ち」欄より 幼い子どもはどうして神さまに近いのだろう。神さまから出てきたばかりだろうか。成長するにつれて、神さまから離れていくのかな。そして子どもに気づかさせてもらうのかしら。 聖書には「あなたたちは心を入れかえて幼な子のようにならなければ、天の国には入れない。」(マタ18:9)とある。

「暦と時計」

6時に目覚まし時計で起きてまなく、介護士さんがお薬をもってきてくれた。骨粗鬆症の薬で月の初めに飲むことになっている。月が替わったことに気が付く。壁にかけているカレンダーを見ると、まだ3月だ。1枚めくって4月にすると、「暦と時計」というタイトルの、金子みすゞの詩がのっていた。      暦があるから      暦を忘れて      暦をながめちゃ、      4月だというよ。      暦がなくても      暦を知ってて      りこうな花は      4月にさくよ。      時計があるから      時間を忘れて      時計をながめちゃ、      4時だというよ。      時計はなくても      時間を知ってて      りこうな鶏 (とり) は      4時には啼 (な) くよ。

まど・みちおさんの詩

まど・みちおさんの詩集『いわずに おれない』を読んでいる。心に残ったものを、二つ引用する。    ぼくが ここに ぼくが ここに いるとき ほかの どんなものも ぼくに かさなって ここに いることは できない もしも ゾウが ここに いるならば そのゾウだけ マメが いるならば その一つぶの マメだけ しか ここに いることは できない ああ このちきゅうの うえでは こんなに だいじに まもられているのだ どんなものが どんなところに いるときにも その「いること」こそが なににも まして すばらしいこと として            おならは えらい       おならは えらい                でてきた とき     きちんと     あいさつ する    こんにちは でもあり    さようなら でもある    あいさつを…    せかいじゅうの    どこの だれにでも    わかる ことばで…    えらい    まったく えらい      

リサイクルする思い出

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  2,3か月前のことになる。掲示板に「10時から11時のあいだにコロナの予防接種があります。談話室にお集まりください」という掲示が出た。10時に談話室に行くと、すでにちらほら人が集まっていた。 少しずつ人数が増えてきて、10時半頃には部屋はいっぱいになる。でも接種をする医師たちは現れない。私は10時から接種が始まるとばかり思っていたから、次第にイライラし始める。11時近くなり、私のイライラは沸点に達する。 私たちを見守るためだろう、介護士さんが一人ずっと同室にいてくれた。その時彼女がオカリナを取り出して、「頭を雲の上に出し」という童謡を吹き始めた。私たちを元気づけようとしてだろう。あまり上手でもなかったが、彼女の思いやりに心が和んだ。11時をすぎる頃になって、ワクチン接種のための医師と看護師たちがやってきた。 あの時のことが、ふと心をよぎることがある。こころにポッと灯が付くような感じがする。

思い出のリサイクル

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  小川洋子さんのエッセイ集『カラーひよことコーヒー豆』を読んだ。著者が効率よくリサイクルする才能として自慢できるのは、ささいな思い出を大事にし、何度でもよみがえらせて、その度に感動を新たにすることができる、と書いておられる。例えば、として、こんな出来事を記されていた。  ――お味噌汁に入れるお豆腐を掌の上で切っている時、必ず思い出す風景がある。息子がまだ言葉を覚えて間がなかった頃、私が同じようにそうやってお豆腐を切っているのを見つけた彼は、不意に叫び声を上げた。  「ママ―、おててが切れちゃうよ」  そう言って、私の足に抱きつき、涙をポロポロ流したのである。  西日の当たる台所で、お味噌汁の湯気が立ち込める中、冷たいお豆腐を掌に載せていると、息子の声がよみがえってくる。ママー、おててが切れちゃうよ。その言葉が心のなかに響き渡る。自分には心の底から純粋に泣いてくれる人がいる。そんな思いに浸って、幸せをかみ締める。泣いてくれた本人はすっかり大人になり、そんなことなど少しも覚えていないのだけれど。―― 想い出の箱が頭の中にあるのなら、思い出して嬉しくなるようなものを入れていこう。

春が来た

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きのう散歩の帰り道で、スミレが舗装路の割れ目から芽を出しているのを見つけた。健気な姿に惹かれて、携帯で写真を撮った。 夜になって、「なんでも鑑定団」という番組を見ていたら、芭蕉の手紙をもっている人が登場した。手紙が本物かどうか鑑定の前に、芭蕉の紹介があった。いくつか芭蕉の句が紹介されていた。    山路来て なにやらゆかし すみれ草 この句もその中の一つだった。で、真似をして、私も句を作った。    散歩道 舗装路さいて すみれ草 コンクリ舗装のすき間から咲き出ているスミレに、元気づけられた。

ふるさとの画家

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  諏訪湖畔にある原田泰治美術館に行ったという知人に見せてもらった本から、この画家を知った。『泰治が歩く』という本は、彼のお父さんの手記の形式になっている。 泰治は武雄の次男として1940年に生まれる。幼いころ小児まひから右足が不自由になる。1941年には太平洋戦争が始まっている。家族の食べるものにも苦労をする貧しいお父さん。でも愛情いっぱいの家族。そのやり取りの中でも、私の心に残る場面がある。 お父さんは水田を作るため、水を求めて山肌を掘り始める。泰治はお父さんのそばで、お父さんに作ってもらっていた木琴をひいて、歌を歌う。トンネルのなかで響くその歌声は、「心の芯の奥まで浸みわた」ったと、お父さんが書いている。 さし絵で見るばかりだけれど、泰治の描く絵は何か温かい郷愁を感じさせる。

メガネがない

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朝食のとき、テーブルの目の前に座っている97歳のシスターが、「昨日からメガネが見つからない」という。耳がとても遠いけれど、認知症はない。「お祈りした?」とたずねた。私はモノをなくすとコルベ神父に祈って頼むと、必ず見つかるからだ。  「誰に?」とたずねるので、コルベといっても「なぜ?」とややっこしくなるから、「聖マグダレナ・ソフィアとか」と返事した。聖心会の創立者だから、聖心会のシスターを助けてくださるだろうと思ったので。シスターは食卓の前で、手を合わせていた。 朝食後、新聞が置いてある部屋に行った。そのシスターはすでにその部屋にいて、新聞を読んでいた。いつものメガネではなく、ツルがひん曲がっているのをかけている。シスターはいつもの席に座っている。私は一つ席を空け、その横に座った。 ふと見ると、その空席の上にメガネがある。クッションの色が濃くて、メガネが見えにくくなっている。たぶん、きのう、眼鏡をはずして椅子の上に置き、そのまま席を立ったのだろう。 「ここにあるよ」と、二人で大喜びした。