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甥のインスタグラム記事

私の甥に陶芸家がいる。京都府南丹市で仕事を続けている。彼の最近のインスタグラム記事、ちょっといいな、と思ったので、引用させてもらう。  昨日は53歳の誕生日でした。  もうだんだん年齢なんかどうでもよくなってきましたが、無事一年を過ごせたことはありがたいことだなと思います。  それはさておき、 東京へ赴いた際には必ず立ち寄る公園があります。その公園にはとても立派なピンオークの森があったのですが、数年前に猛威を振るったカシノナガキクイムシの被害を受けて、ほとんどが枯死してしまいました。  20 20年の秋、伐採され変わり果てた姿を眺めつつ公園を後にしようとした時、これまで一度も拾えなかったどんぐりを発見し、夢中で拾って持ち帰りました。  その後植木鉢に播種して育った7本の苗木が、公園管理事務所の特別な計らいで先日里帰りすることができました。  これはどんぐりを拾った時からの願いだったので本当にありがたく嬉しいことでした。  今年も特に何事も無く過ごすのかと思いきや、とても大きなプレゼントが貰えたように思います。  いつか彼の地で大樹となってくれたらいいなあ。 陶芸家の考えることは、気が長いなーと感心する。なお、彼の名は増田哲士で、「しのぎ」という技法を使った作品が特色である。しのぎそのものも、手間ひまのかかる技法だ。

漢字なるほど

修道院の本棚には昔からの本がある。星野富弘さんの詩画集を見つけ、拾い読みした。子どものころ通っていた小学校の名前が「杲(ヒノデ)小学校」と言ったそうである。「周囲を千メートルの山に囲まれた小学校の日の出は、字のように木の上に昇る。」と書かれている。今は過疎化で、ヒノデ小学校も統廃合され、名前も消えただろう。星野さんは、「杲」に続けて、木の間を通って日が昇るのが「東」、と書いておられる。 「杲」を漢字ナビで調べると、音読みでは「コウ」「ゴウ」、訓読みでは「 あき(らか)」「たか(い)」となっている。ヒノデの読み方はない。 漢字の成り立ちに興味がわいてきた。漢字の字源を追及された白川静さんの本を読んでみたくなった。

納骨と小さな会

6月7日(日)に納骨が聖心会裾野修道院敷地にある墓地で行われた。今回は6人のシスターの納骨だった。これまでは秋に行われていた。それも例年は2、3人だった。今年は8ヵ月のあいだに6人である。聖心会の日本人会員数は130人ほどだったけれど、現在70人を切っている。新聞に「多死社会」などという言葉が出てくる。「高齢社会」の次に来るのは当然「多死社会」だろう。日本社会現状の一端である。半世紀ほど以前は、聖心会は世界で6千人の会員に成長したが、現在、1,700人くらいになっている。 1800年にマグダレナ・ソフィア・バラは4,5人の志を同じくする人たちと聖心会を立上げ、 ”our little society" (この小さな会)という言葉を使っていた。文字通りの小さい集まりであった。現状は最初のころの形になっている。 大人数か少人数かを別にして、高齢者の私たちが今もできることがある。祈ることができる。なにかのお役に立っているかどうかわからないけれど、それは神さまにおまかせして、できることをしていきたい。

tabernacle

5月25日は聖心会の創立者聖マグダレナ・ソフィア・バラの祝日だった。夕方のミサに来てくださったトーマス神父は、聖堂に入ってくるなり「長年tabernacle である皆さんとご一緒にミサを捧げられて、嬉しく思います」とおっしゃった。 「?」と思ったが、説明もなく、ミサは続いた。説教のときになって、神父の話をかいつまむと、次のようだった。 ――「子どもたちがマザー・バラのお話を聞きに集まった」というエピソードを聞きましたが、どんな方だったのだろうと想像しました。マザー・バラがどのように子どもたちを見ていらっしゃったのだろうかと。どの子どもの中にも神さまが宿ると思っていらっしゃったでしょう。その温かいまなざしが、フランス革命後のすさんだフランス社会にぬくもりを伝えただろうと思います―― マザー・バラ像の新しいとらえ方を教わった。と同時に、神父がミサの前に tabernacle という語を使われた意味も分かった。マザー・バラに集まった子どもたちばかりでなく、私たちもtabernacle であるとおっしゃりたかったのだろう。tabernacle は、カトリック教会では日本語で「聖櫃」という。聖別されたご聖体を入れて、聖堂内で保存する。聖堂内の聖櫃だけではなく、私たち一人ひとりが神の住まいであると。

火傷をした

一階の食堂でマグカップにお茶を入れ、エレベーターに乗って3階の自分の部屋まで戻った。3階には、エレベーター前から10室が並び、角を曲がってさらに9室が並んでいる。私の部屋は、その9室の一番先にある。 カップの取っ手をもっている左手の中指がカップに触れて、熱いと感じたが、とにかく部屋まで行かなくちゃと思い、がまんして部屋にたどり着いたときには、中指のカップに触れていた部分が真っ赤になっていた。ひりひりするのでバンドエイドをもらおうと、看護師さんのところに行った。 看護師さんは「いつのことですか」とたずね、「5分前です」というと、指に水道水を5分間ほどかけ流しにした。それから「これは優れモノのバンドエイドです。水は通さないけれど、空気は通すのです」と言って、指に貼ってくださった。 3日ほど前のことになる。今日、バンドエイドをはがしてみると(あいだで何度かバンドエイドを交換した)、赤いあとが残っているが、痛みはもうない。 このできごとから学んだことは、 1)熱いものは、すぐ手から離すこと 2)火傷には流水がいいこと 3)バンドエイドも進化していること

宵の明星

イメージ
きのう夕食後の8時ごろ、仲良しのシスターが「ちょっと、ちょっと」と手を引っ張る。「なに?」と聞いても返事をしないで、廊下の向かいにあるドアを開けて、屋上に引っ張り出された。そして夜空を指さして、「お月様、きれいでしょ?」という。空を見上げると、たしかに三日月が輝いていた。 私が「ハッ」としたのは、三日月にではなく、その上方に二つの大きな星が輝いていたからだった。どちらかわからなかったが、一つは宵の明星に違いないと思った。私は明星キチである。シスターにお礼を言って部屋に戻り、天文サイトで調べた。 やっぱり下方の星が明星で、上の方が木星だった。晴天の夜空に輝く宵の明星を久しぶりに見られて、とても嬉しかった。 下に天文サイトの記事をコピーした。これによると、金星は月の下方に見えるが、私が見たときは、時間的に少し後だったためか、月の上方に見えた。

シスター山田の帰天

4月29日、シスター山田キミ子が帰天した。99歳だった。誕生日は1927年1月7日とされている。ただ、洗礼証明書の日付は12月27日だそうである。生まれてすぐに洗礼だったのではないかと考えると、誕生はそれ以前だっただろう。当時、生まれてすぐに数え年1歳で、元旦に2歳になるから、誕生日を遅らせて届けられたと考えられる。 私は現在の修道院に4年ほど前に移って、シスターと初めて出会った。そのころはまだ元気で、背中が曲がっていたけれど、歩行器も使わず歩くことができていた。年下のシスターで手足が不自由な人を訪ねては、着替えを手伝ったりしていた。食堂では、食事の終わったお皿類を集めてキャスター付きミニ・テーブルにのせ、洗い場へ運んでいた。「足が痛いでしょうから、しなくていいですよ」というと、「私の仕事を取らないで」と言われるので、していただくことにしていた。 そのうち足も弱り、歩行器が必要になって、食事が配膳される食堂に移つられ、おしゃべりする機会もなくなった。 シスターは渋谷区でただ一人の被爆者手帳をもつ人だったと聞いている。長崎の原爆投下のときには、シスターは修道院に入っており、直接に被爆はしていない。原爆投下の3日後、長崎に戻った時には、家は瓦礫となり、家族は全員死亡。市役所に行き、涙が止まらず泣き続けたのを、受付の女性がずっと一緒にいてくれたそうである。 食べものもなく、その辺にあったカボチャを食べたところ、吐き気と下痢でおかしくなった。それで被爆したらしい。 戦後、シスターは東京聖心女子学院で印刷室の担当だった。低学年の生徒たちの課外の世話係を長年された。おもらしなどをした子どもを優しくなだめながらお世話なさったと言い伝えられている。 シスターの亡くなられた日の夜、皆でシスターをしのんで祈っているとき、私は涙があふれた。とても身近な人がいなくなった感じがした。 シスターの葬儀ミサのなかで、神父が 「シスターはいなくなったのではありません。神さまの世界に入ったのです。だから今、ここにいるのです。見えないだけです。」 と言われた。 「大丈夫、大丈夫」という、シスターの口癖が聞こえる気がする。

「神が右に・・・」

土曜日の夕方のミサに来てくださった神父は、3、40年前知っていた方だった。久しぶりだし見分けられるだろうか、と思っていた。やっぱり以前とはすっかり変わっていた。でっぷりと太り、髪の毛もずいぶん後退している。 ミサ中の説教で、彼は朗読の中にあった「主が私の右におられるので、私は決して動揺しない」という一節を取り上げ、右のこぶしを胸にあてて、「神が右におられる。恐れることがありません」と言った。 後になって、その言葉と彼のしぐさが思い出される。「神が右におられる」というと、私のイメージでは私の右に立っておられるのだが、なんだか心強くなる。

出会い

 構内を散歩していて、掃除しているおじさんに出会った。小柄な方で、私よりは若いだろうけれど、80歳に近いかと思った。落ち葉をのせた大きなリヤカーを押していた。何かお礼を言いたくて、「ありがとうございます」と言った。おじさんが何か言ったが、私は耳が遠くて、「え」と返すと、「風邪をひかないようにね」と。で、「おじさんもお元気でね」と言った。 夜ベッドに入ってから、例の「3 good things」をしようとしたら、一番にこのおじさんとの出会いを思い出した。一瞬のことだったけれど、おじさんの優しさが心に残っていたのだろう。

祈りを捧げる

修道院に入って以来、朝一時間、午後30分の黙想が習慣になっている。その時間に何をしているかというと、いろんな雑念が頭の中を行き来して、ぼーっと座っているだけが現状である。若いころ、祈りの時間は神さまの慰めというか、心が満たされるしあわせな時だった。近ごろはそんなことは全くない。若いころの慰めは、祈りに引き寄せるための甘いお菓子だったのかしら。 「ちっともいいこと、ありません」とつぶやいていて、ふと気が付いた。祈りは私が捧げるものだ。神さまから何かをもらうためにするものではない。修道院に入ることを願ったのも、重い病気をして神さまの愛を知り、神さまに自分を捧げようと願ったからだった。 「つたない祈りですが、お捧げします」と祈ればいいのだと気づいた。卒寿を迎えての気づき。ちょっと遅いかも。

「娘の成長」

お母さんが5歳のお嬢さんについて書かれた投稿記事「娘の成長」を読んだ。通勤の道すがら、お嬢さんを保育園まで送っていくときのこと。 ――ある朝、娘と登園途中に二人で空を眺めていると、分厚い雲の隙間から一筋の太陽の光が差し込んでいた。それを見て娘は「神様が下りてくる道じゃない?」と不思議なことを言った。  翌日はどんよりした雨模様の空だった。その日も娘は「神様、お風呂に入っているんじゃない?」  朝の忙しい時間に空を眺めて神様を想像できるわが子を見て、ふと「他と比べなくてもいいのかも」と思えた。――    毎日新聞朝刊4月4日 「わたしの気持ち」欄より 幼い子どもはどうして神さまに近いのだろう。神さまから出てきたばかりだろうか。成長するにつれて、神さまから離れていくのかな。そして子どもに気づかさせてもらうのかしら。 聖書には「あなたたちは心を入れかえて幼な子のようにならなければ、天の国には入れない。」(マタ18:9)とある。

「暦と時計」

6時に目覚まし時計で起きてまなく、介護士さんがお薬をもってきてくれた。骨粗鬆症の薬で月の初めに飲むことになっている。月が替わったことに気が付く。壁にかけているカレンダーを見ると、まだ3月だ。1枚めくって4月にすると、「暦と時計」というタイトルの、金子みすゞの詩がのっていた。      暦があるから      暦を忘れて      暦をながめちゃ、      4月だというよ。      暦がなくても      暦を知ってて      りこうな花は      4月にさくよ。      時計があるから      時間を忘れて      時計をながめちゃ、      4時だというよ。      時計はなくても      時間を知ってて      りこうな鶏 (とり) は      4時には啼 (な) くよ。