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若隆景の優勝

相撲の番組を見なくなって久しい。若貴時代には見ていたこともあるが、勝つためには何でもありの横綱の時代になって、相撲番組から遠ざかっていた。お相撲さんたちの名前も知らない。 最近、ドライアイや緑内障の治療のため、数種類の目薬を日に何度かささなくてはならない。夕方には、3種類をさすことになっている。一種類の目薬をさすと、5分の間隔をあけなくてはならない。なにもしないで5分間過ごすのは退屈なので、テレビをつける。5時半頃の時間帯、ここのところ相撲をやっていた。仕切りのときから潔く、きれいな相撲を取る人を1,2度見かけた。 27日、また目薬をさして、テレビを付けたら、きれいな相撲を取ると思った人が、優勝杯を受け取るところだった。表彰式後のインタビューから、この人が福島出身だと知った。3月は、福島にとって忘れられない時期だろう。この時期に福島出身の力士の優勝に、こちらも嬉しくなった。 その日の夜、福島の知人から電話をもらった。おいしいお菓子を見つけたから送りますとのこと。福島はこちらが応援したいほうなのに、折にふれてお心遣いをいただいている。「福島出身の人が、お相撲で優勝しましたね」というと、「あの人は3代続きのお相撲さんなのよ」とのこと。「お父さんの車とはよくすれ違う。車からはみ出しそうに大きな人で、車から降りると、車が弾んで跳ね上がるのよ」で大笑いした。 若隆景、おめでとうございます。

すごい方達

福島にいる友人から、次のようなメールをもらった。 今回の地震では屋根の瓦が壊れたところが多くて、 いまカリタスは特別に屋根瓦修理専門のボランティアだけ受け入れ ています。命綱つけて作業する方の話なんて、 ここでなければ聞けないなーと思いながら、 聞かせていただいています。昨日、 1人屋根瓦の仕事が本職の若い方がボランティアとして参加してい ました。 5-6人のグループですが、皆違う県からの方々、 災害のあるところで一緒になる仲間だそうです。 すごい方達だと感動しています。 私も感動した。  

ウクライナと小鳥

 「小鳥は言葉を使える?」というタイトルの話がAsahiDigital で見られるとのこと。新聞記事で見て、申し込みの手続きをしようとした。ふと、ウクライナのことが頭をよぎった。死ぬか生きるかの思いをしている方たちがあるのに、こんなのんきなことをしていていいのだろうか。なんだか申し訳ない気持ちになった。苦しんでいる人たちがあるとき、私たちは心の底から楽しい思いができない。 ここ2・3日、私の住んでいるところでは、ウグイスの鳴き声が聞こえるようになった。ウクライナでは、小鳥どころでないだろう。小鳥たちは、どうしているのだろう。人間の残虐で、小鳥や動物たちも生存を脅かされている。 ウクライナのため、今のところ私にできるのはささやかな献金と祈りだけである。

「わたしはあるという者だ」

きのうの朝、ミサのときの朗読の一つが、神がモーセを派遣するときの話だった。そのなかで、神はモーセに「わたしはあるという者だ」と告げている。英語の聖書では "I am who I am" などと訳されている。私にはチンプンカンプンで、何のことだかわからない個所の一つだった。しかし、司祭の次のような説明で、初めて理解できた。 「わたしはある者」とは、「あなたにとって、わたしは(いつも)いる者」と理解できる。神は派遣するモーセに、「わたしはいつもあなたと共にいる」と語りかけている。新約聖書では、イエスがインマヌエル(=神われらとともにいます)と呼ばれている。 司祭の話で、今までわからなかったことが腑に落ちて、驚いている。86歳にもなると、新しく理解・発見することはないと思っていたらしい。

将棋の神さまにお願い

藤井さんが次々と昇段し、タイトルを増やしている。将棋のことは全く分からないのだが、春先に若木がすくすく伸びていくのを見ている感じがずる。こちらにエネルギーを送ってくれる。 何年か以前に受けていたインタビューが、今も印象に残っている。「将棋の神さまに会ったら、何を願いたいですか」と尋ねられ、すぐに「一局、お手合わせ願いたいですね」と答えていた。意表を突かれた。私だったら、「将棋が強くなるようにしてください」と答えただろう。でも、彼は違った。彼は将棋を本当に楽しむ人なのだろう。ゲームセンターで夢中になっている少年を思わせる。それが彼の強さの源かと思った。

YOUは何しに・・・

プレバト以外に、”YOUは何しに日本へ”というテレビ番組を、必ず録画予約して見ている。多くの場合、記者が国際空港に行き、到着した外国人に「インタビューOK?」と尋ねる。OKの返事があると、「YOUは何しに日本へ」と質問する。 番組によって知るようになった日本は、いっぱいある。例えば、 ツナマヨのおにぎりが大好きなアメリカ国籍の人である。すべてゼロから作ることを目指している。マグロを釣ることはできなかったが、カツオを釣り、それを缶詰にすることは完成させた。最近の収録では、日本の伝統的塩づくりに挑戦していた。天秤棒両端の木桶でもって海水をくみ取り、塩田に撒く。天日干しにしたのち、塩のついた砂を集めて桶に入れ、そこにさらに海水を入れる。濃度の濃くなった桶の中の水を抽出する。その水を窯で煮詰めると、ミネラル豊富な塩が出来上がる。唯一能登で、今も続く伝統的製塩法だそうである。 もう一つは、スペイン人の年配女性だった。「YOUは何しに日本へ」と尋ねられて、「子どもの頃からあこがれていた日本に、やっと来られました」と答えながら、涙ぐんでいた。子どもの頃、親と一緒に汽車に乗っていたとき、何が理由だったか忘れたけれど、自分が泣き続けていた。すると、前の席に座っていた人が、私の手に折り鶴をのせてくれた。かわいい折り鶴をもらって、泣くのを忘れた。そのとき以来、日本に行きたいと思うようになった、と話していた。 日本のアニメにあこがれる人、日本の各地のラーメンを食べたい人、忍者訓練を受けに来る人、などなど。他国の人たちがいろんな形で日本に触れている。その人たちの話や体験をから、これまで知らなかった日本の姿を知ることができて、楽しい。  

バール神とイエス

一時期、何を思い詰めていたのか忘れたが、 このまま進めば、もしかすると神は存在しないことに行きつくのではないか、と思ったことがある。もし存在しないなら、私のこれまでの修道生活は無意味だったことになる。そんなことに気付くより、目をつぶり毎日を続けようか。そう考えたが、やはり真実を知るべきだと選択できた。そして行き着いた先に、神はおられた。 そのときから、神の存在を疑うことはなくなった。その後、何年かして、調べごとの必要があって古代オリエント文学を読んでいた。読みながら、聖書でイエスがオリエント神話の主神バールと対比して描かれていることに気付いた。とくにバールの処女神からの誕生という点で、イエスをバールと同じ神秘的な存在として描こうとしていると思われた。そうこうしているうち、バールとイエスが私のなかでゴチャゴチャになってしまい、イエスが見えなくなった。 そんな情けない心境のしばらくが続いていたある日、朝のミサ中の司祭の話で目が覚めた。イエスは赤ちゃんとして生まれ、毎日少しずつ成長して、少年となり、青年となった。バールのように生まれたときから成人した神であったのではない。私たちと同じ、人間だった。 1943年、教皇ピオ12世は Divino Afflante Spiritu という回勅を出している。考古学、古代史、古代文学を用い、聖書を科学的に解釈することを奨励する回勅である。当時、カトリック教会内には、古代オリエントの研究を取り入れることに対して反対する風潮もあったらしい。この回勅のおかげで、カトリックの聖書学は飛躍的に発展する。 この回勅がもたらした成果は言うまでもない。ただ、私のような体験をすると、古代オリエント文学や文化の研究に反対した人たちの気持がわかるような気がする。

心のからくり

40年ほど前のこと、シカゴにいた。ロヨラ大学の付属機関の霊性研究所で9ヵ月のコースに参加していた。3人のイエズス会の司祭と3人のシスターが指導者だった。所長の司祭は、心理学を土台にする、経験的霊性を説く人だった。40人ほどの参加者で、半数はアメリカ人、残る半数はあちこちの国から来ていた。 週5日のプログラムで、毎朝9時に1時間の所長の講話で始まった。その後、参加者は8人ずつ位のグループに分かれて、午後3時まで、いろんな演習をした。アメリカ・インディアンの昔話やグリム童話を取り上げるグループ、夢を扱うグループ、サイコシンセシスを学ぶグループ、フォーカシングのグループ、などなど。所長以外の5人のスタッフがグループの指導に当たっていた。 あるとき、所長が講話で、若い母親から生まれた女の子は、父親の愛情を得ようと、母に対してライバル心をもつことがある、と軽く触れた。「そういえば、私は母が20歳のときの子どもだけれど…そんなことあるかしら?」と思い返していると、そのとたん、女性の指導者たちに対して私がもっていた競争心が抜け落ちるのを感じた。そんな競争心をもっていることすら気づいていなかったのに。 ちょっとした心理学の知識が、人の心を囚われから自由にしてくれることがある。

最初の記憶

ひとりで座っている女の子。これが目に浮かぶ最初の記憶である。同時に思い出すのは、祖母の声である。勤めから戻ってきた父に、「静江さんが、お腹が大きいのに、仏壇を二階までかつぎ上げてくれたんだよ」と言っている。これらの記憶は、私が2歳のときに神戸で起きた大洪水の折のものらしい。私を二階において、母と祖母は一階のものを上に運んでいたのだろう。宗教的な事柄の大切さを、この時に教わった気がする。 一段落した時に、「さあ、おうどんでもたべましょ」と幼い私が言って、大人たちが笑わされたとか。後になって、祖母から聞いた。

アッシジの聖フランシスコ

半世紀ほど前になる。終生誓願を立てる準備のため、30名ほどの修道女の卵が世界の国からアッシジに集まった。スペインから6、7人、アメリカからも同じくらい。ほかはメキシコ、ポーランド、オーストリア、イギリス、アイルランド、スコットランド、フィリッピンなどから1,2名。日本からは私だけだった。ともにアッシジで3カ月ほどを過ごした。 宿泊したのは、巡礼者用宿舎であった。丘の上にある城壁に囲まれた地域内にあった。お隣がオリーブオイルを製造する工場で、夜中は電気料金が安いとかで、夜になると、ガタンガタンと音がしていた。 色んな事を体験させてもらった3カ月だったけれど、指導者だったスペイン人のシスターが話してくれたことが今も心に残っている。弟子の一人が「神のみ旨とは何ですか」と尋ねたとき、聖フランシスコは「 あなたが心の底から望むこと 」と答えたということだった。でも、それを見つけるのは、やさしくないのではないか。少なくとも、私が見つけることができたのは、還暦近くになってからだった。 こんなことを考えていたら、甥のことを思い出した。彼は高校生のときに陶芸家ルーシー・リーの作品をぐうぜん見て、心を打たれ、イギリスまで行った。彼女の家をたずね、ルーシーに会って、作品を見せてもらっている。その後、京都教育大学に進み、陶芸の道を一筋に進んだ。こんな風に「心の底から望むこと」を見つける人もあるのだろう。現在、50歳近くなっている。いろいろ苦労をしたらしいが、私にはまぶしいほどの人生に思われる。 アッシジから帰ってきて、しばらくして、アッシジの写真集を眺めていた。記事の一つが、「愛するよりも、愛することを」という祈りについてであった。聖フランシスコの祈りとされているが、実は20世紀初頭に作られたものだと書かれていた。私自身、この祈りに何かしっくりこないものがあったので、納得だった。そういえば、アッシジの売店で、祈りの言葉を書いたカードなどが売られていたが、この祈りのカードはなかった。

白内障の手術

1月中頃に右目の手術、1週間後に左目の手術を受けた。お医者さんに手術を勧められながら、延ばし延ばしにしていたが、「このままにしていると、緑内障の治療ができなくなります」と言われて、観念した。 白内障の手術って、目にメスを入れるのだろうから、それが見えるだろうと思い込んでいて、それが何より怖かった。でも実際は、光がピカーッと見えて、そのあとは水が目の上を流れている感じだった。痛みもほとんど感じなかった。 手術後、4種類の目薬をもらい、それをそれぞれ違った回数点眼しなくてはならない。間違えずにできるのか、不安だった。ところが、手術後、1週間分の点眼予定表を渡された。朝、昼、夜、寝る前、のそれぞれに、どの薬を点眼すればよいかリスト化されており、安心した。 いろんな面で配慮がとても行き届いたいた。手術前には、「白内障手術のしおり」という冊子が渡されていた。手術についての説明のほかに、洗顔、入浴、運動、などなどをいつから始められるか、なども詳しく記されていた。 よその眼科を知らないので、どこでも同じようにされるのかもしれないと思う。でも、もしかしたら、いいお医者さんに出会えたのかもしれないと、ありがたく思っている。女性の細やかさなのか、それとも、この方の経歴にも関係するのか。内科医を目指して医学を学んでいるときに網膜剥離になり、眼科医になる決心をなさったとのこと。その治療を受ける段階で、患者の気持や必要を体験なさったに違いない。 手術後、世の中が明るくなった。見えていなかったものが見えるようになった。レンジ横の壁についている油跳ね、窓ガラスの汚れなど。見えるようになって気になるのが、面倒だけれど。 読書用の眼鏡を作れるのは、まだ少し先になる。それまで、少し我慢の必要を感じている。

好きなごはん

好きなごはんは?と尋ねられれば、迷わず「ウナギ」と答えるだろう。大好きである。確かにおいしいけれど、最初に食べたウナギの思い出につながるように思う。 高校3年生の夏休みのことだった。学校から郵便がきた。「高校対抗の英語スピーチコンテストが行われる。当校では、3人の候補者から出場者をえらぶので、〇月××日に書いたスピーチをもって、登校するように」という内容だった。ところが、郵便の配達が遅れたのか、〇月××日は郵便を受け取った翌日だった。スピーチの内容を考える余裕もなく、購読していた学生向けの英語雑誌から短い文章をコピーして学校に行った。 高校は現・宝塚市にある私立高校で、私の家は京都だったため、学期中は寄宿生だった。学校に行ってみると、私以外の二人は通学生だった。彼女らには早くから連絡が行っていたらしい。連絡が早くついたのは、学校の近距離に住んでいたためだったのかもしれない。 いづれにしても、私の提出したものはスピーチでもなく、すぐに選考から外された。連絡遅れの故に対等に選考されなかったのが、悔しくてたまらなかった。校舎を出て、思い立って、父に会いに行くことにした。父の勤めている会社は大阪にあった。宝塚から大阪まで行き、会社の受付で父を呼んでもらった。出てきた父を見るなり、ワーワーと泣き出した。父はすぐに私を連れて、会社から少し離れたところにあるウナギ屋さんに連れて行ってくれた。生まれて初めて食べるうな重だった。 その大好きなウナギが、近ごろ、食べられなくなった。腸閉塞を二度やり、お医者が避けるようにと言った食べ物のリストのなかに、ウナギが入っているのである。