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認知症と成聖への道

「自分は認知症になりたくないという人は、心のどこかで認知症になっている人を蔑んでいる」。さいきん読んだ記事 注 に 、 ギクリとした。筆者はイエズス会士のための介護施設長をしておられる山内保憲神父である。 記事のあらましは、次のようだった。 ――健康寿命を延ばすということは寿命を延ばすことで、介護が必要な時間も長くなる。信仰がなければ、老いや死は、ただただ嫌なものかもしれない。しかし、イエスをキリストと信じる私たちにとっては、別のものになる。老いて認知症になる道は、イエスの道であるからだ。イエスも、人から見捨てられ、誰もなりたくない姿になった。  「自分を低くして、この子どものようになる人が天の国でいちばん偉いのだ」(マタ18:4)というイエスの言葉もある。認知症は本当に子どものようにしてくれる。なろうとするエゴの働きではなく、自然の摂理によって。  老いて、それまであった力が失われているときに、やっと私たちに本当の「成聖」への道が開かれる。―― なるほどなぁ、とは思うけれど、やっぱり認知症になりたくない自分がいる。 注  「介護の現場から」——成聖の完成の時である老いと死ーー(『聖性への道のり』越前喜六編著、教友社、2023年)

共時性の不思議

昨日21日はミサがなかったので、夕方に集会祭儀があった。祭儀には、ミサの会衆用冊子「毎日のミサ」を用いる。 朗読箇所の聖書本文や祈願などが、日付ごとに収録されている。祭儀の終わりになって、次の日の記事が目に入った。22日は、聖マリア(マグダラ)の祝日とある。 その日の朝、『マグダラのマリアによる福音書』を読んで学んだことをブログに記して、 アップしたばかりだった。 この本を修道院の図書室で手に取ったのは、深い興味があったわけでもなかった。 ふと手が伸びたからだった。 それなのに、夢中になって読み、ブログまでアップし、し終えたら、マグダラのマリアの祝日!!! 「毎日のミサ」は、祝日の説明を次のように記している。 ”キリストに従う人たちの一人で、キリストが十字架上で亡くなられたときにそばに立ち、三日目の朝早く、復活したイエスと最初に出会った(マルコ16・9)。マグダラのマリアへの崇拝は、特に十二世紀から西方教会に広まった。(『毎日の読書』より)” 「毎日のミサ」は、カトリック中央協議会によって発行されている。 マグダラのマリアが悔い改めた娼婦でないことは、現在、公認されているのだ。 一か月ほど前、『マグダラのマリアによる福音書』を手に取ったときから、マグダラのマリアの祝日に至るまで、 目に見えない何かに導かれていたような気がする。

存在する「マリア福音書」

修道院の図書室でふと手に取った本から、「マリア福音書」なるものが存在することを初めて知った。題名は『マグダラのマリアによる福音書』である(副題「イエスと最高の女性使途」山形孝夫・新免貢訳、河出書房新社、2006年。英文原書は2003年刊行)。著者はハーバード大学の神学部教授カレン・L・キングで、古代キリスト教史、コプト語を担当するとある。以下、この書から私が学んだことをまとめてみる。 19世紀後半以降、「マリア福音書」の3世紀初頭のギリシア語写本が2つ、5世紀のコプト語写本が1つ見つかっている。たいていの学者たちは、「マリア福音書」の成立年代を2世紀後半に定めてきた。キング自身は2世紀前半とする。内容が、使途継承、正典などが広く受け入れられる以前のものだからである。 初期キリスト教徒の作品であるという証拠はゆるぎない。これらの文書が今に残されたのは、ひとたびテクストが書き写され、それが使い古されると、それをまた書き写すという仕方で筆記され続けてきたからである。しかし、5世紀以降は再び筆写されることはなかった。 入手されたパピルス写本はわずか8頁足らずで、「マリア福音書」の最初の6頁は失われている。残された「マリア福音書」は復活後の物語で始まる。イエスに愛されるマリアという女性がいた。イエスの母ではない。イエスに愛されたのは、イエスの教えをよく理解するゆえにであった。弟子たちは宣教に出て行くことを恐れている。マリアは、幻に見たイエスから受けた教えを話し、弟子たちを慰め、励ます。それに対して、ペトロが、イエスがこのような高尚な教えを女性に授けるはずがないし、男の弟子たちよりマリアを好んだとは考えられないと言う。泣き出したマリアを弟子のレビがかばい、われわれはイエスに命じられたように宣教に出かけなければならない、と言う。物語はここで終わっている。 「マリア福音書」では、 1.イエスは 神を「善き 方」 と呼ぶ。「父」とは呼ばない。性別されていない。 2. 「人の子」 という呼称はイエスではなく、すべての人のうちにある真の自己を指す。   性差はない。 3. 指導性の根拠 は人の性別ではなく、霊的成熟度とされる。 現在、「マリア福音書」は正典新約聖書に対し外典とされ、顧みられることはほとんどない。しかし、「マリア福音書」が書かれたのは、新約聖書も成立していない時代であった。...

進化する補聴器

シャカ、シャカ、シャカ・・・・広げている新聞をめくるごとに音がする。「こんな音がするものだったっけ」と思う。そういえば、朝から補聴器をつけていた。 耳の具合がおかしくて病院に行った。検査の結果、軽い難聴とのことで、補聴器をすすめられた。予約をして次回行くと、詳し――い聴力検査の後、補聴器屋さんのいる部屋に呼ばれた。「これを付けてみてください」と言われて、渡されたものをつけた。ごく小さい器具を耳の上にのせ、それにつながる細いプラスチック状の線の先の耳栓を耳に入れる。すると、すぐに違和感なく聞こえがよくなった。3週間貸し出しということで、朝から耳につけている。 以前、知っている人が補聴器を作ったとき、聴力検査のあと数日して、補聴器ができあがった。その後、調整のために、なんどもお店に通っていたことを知っていた。面倒なことになるだろうな、と予想していた。しかし、驚いたことに、 その1: 聴力検査のすぐ後にできあがった。 その2: 調整も必要なかった。 私が知らなかっただけだろうけれど、補聴器も進化しているのだ。それも、聞こえをよくするだけでなく、不要な騒音は小さくなっているらしい。 進化している補聴器に驚いた。そのお値段にも。

103歳からのお知らせ

「ご希望の方 お読み下さい。おすみになりましたら、〇〇までお返し下さい」というメモのついたクリアファイルが、集会室のテーブルの上に置いてあった。〇〇は、103歳のシスターの名前である。 中には、5月9日付の毎日新聞夕刊の切り抜きが入っていた。見出しは、「大阪 明治の『信徒発見』」で、関西での隠れキリシタン発見年についてであった。通説では1920年とされる。この通説を40年ほどさかのぼる史料がフランスで保存されており、その史料を京大人文科学研究所の紀要「人文学報」120号が掲載しているとのことである。 同じ新聞を読んでいながら、この記事は私の記憶にない。

ガーコ?

今朝7時ころ、大きなカラスが部屋の前のベランダの手すりの上をヒョコヒョコと横切って行った。まさかガーコが裾野から来たのじゃないだろう。その辺のカラスが来たのかしら?私がカラス族の匂いでもするのかしら。いずれにしろ、嬉しかった。

ゾッとする

ティーバッグを入れお湯を注いだカップを、テーブルの私の席に置いた。それからパンや果物が置いてある食堂奥の大テーブルに行き、お皿にパンとチーズをのせて、自分の席の戻ってくると、ティーカップがない。「さっき置いたはずだけどな」とあたりを見回してもない。置いたつもりだけれど、記憶力がおかしくなりはじめたのかなと思うと、ゾッとした。 仕方がないから、もう一つティーバッグを取り出して、カップに入れ、お湯を注いてお茶を作った。私はカフェインがダメなので、黒豆茶を飲んでいる。一袋10円の安いものである。普通の紅茶のティーバッグについているような糸が付いていない。飲むときには、スプーンなどで取り出す。 私が食事を始めるころには、お隣の席の人もお皿とカップをもってきて座り、食事を始めた。その人がカップからティーバッグを取り出すのを見て、気が付いた。そのティーバッグには糸が付いていない。90歳をこえた人が、私の入れていたお茶のカップを自分のものと間違えたのだ。私もその年齢になれば、同じようなことをするだろう。でも、今のところ、まだ大丈夫のようだ。ゾッとしたり、ホッとしたり。

幼い頃の思い出

介護施設の住人である私たちは、想い出をいっぱいもっている。4,5人ずつで座っている食卓の会話は、しばしば子どものころの話になる。 先日は、物売りの呼び声が話題になった。 「お豆腐屋さんや納豆売りが来たわね」 「そうそう、納豆売りは『ナットナット――、ナット―』とか言って」 「お豆腐売りは『トーフィ――』ってね」 これは関東育ちの人たちの会話である。京都では納豆売りは来なかった。納豆を食べる人が少なかったからだろう。豆腐売りは来たけれど、「プー」という小さなラッパのようなものを鳴らしながら来た。門柱の上に代金を入れたお鍋を乗せておくと、そこにお豆腐を入れてくれた。それにしても『トーフィ――』はないだろうと思ったが、黙って聞いていた。 こちらの施設の集会室には、寄贈されたり、いなくなった人が置いて行ったりした本が、どっさり本棚に並んでいる。もちろん、購入したものもあるだろう。美術全集や辞典・事典などのほかに、サザエさん全集もある。このあいだサザエさんの一冊を貸し出して読んでいたら、お豆腐屋さんのエピソードがあった。お豆腐屋さんが「とうふーい」と叫んでいる。 つい今しがた自分が言ったことを忘れても、幼い頃の思い出は鮮明に残っている。

心のぬくもり

「裾野、ミスする?」 エレベーターに乗り合わせたシスターにたずねられた。たずねたシスターは90歳過ぎ、歩行器を使って歩いている方である。 「うん」と返事した(「はい」とでもいうべきだったかな、とあとから思い返す)。 「私もミスするよ」とそのシスターは言った。ぬくもりが伝わってきた。 ふだん、口数の少ない人である。その方が裾野にいたのは、ン十年も前のことだろう。でも、私の気持に寄りそおうと思って、そう言ってくださったのだろうと思う。寝る前に、その日にあった 3GOOD THING を思い出すことを習慣にしている。きのうの夜の3つのうちの一つは、このできごとだった。  

神の神殿である私たち

きのう、修道院で集まりがあった。会憲を少しずつ読んで、それについて分かち合いをした。会憲には修道会の基本的な決まりごとが記されている。きのう取り上げたのは、誓願についての部分だった。20人ほどが集まって、それぞれに思いつくことを話したのだけれど、一人の方の話が今も心に残っている。 ーー大学を卒業して、これからどうしようかと考えているときに、「シスターになることを考えては」と言われたことがあって、それで修道院に入ったと思っていた。でも、さいきん、どうして自分はシスターになったのしら、と考えていて、小学生の時、初聖体を受けたおりの時を思い出した。シスターたちが列になって廊下を歩いていらっしゃるのを見て、「私もあの廊下を歩かせてください」と祈った。あれが修道生活への最初の決心だったと思う。ーー この方の分かち合いを聞いていて、神様が幼い子どもの心にずーーっと、80歳をすぎるまで、いらっしゃったのだと思うと、「あなた方は神の神殿です」というパウロの言葉(コリント第一3:16)が実感として迫ってきた。 介護施設にいる私たちのことだから、物忘れもしょっちゅう、というのがふつうである。でも、老いてからの物忘れはさいきんのことで、昔のこと、幼い時のことは覚えていると聞いている。この方もそうなのだろう。幼いころの宝物のような記憶が残っているとすれば、幸せだなと思う。

103歳ができること

ここ2,3日、暖かい日が続いている。そのせいか、唇がひび割れる。メンソレータムのリップステックが欲しい。ここでは月曜までに申し込むと、買い物の代行を頼むことができる。今朝、申込用紙に記入しに行った。私の記入用紙を決められた箱に入れると、すでに一枚、申込用紙が入っていた。 「定型封筒(白)洋形2号2包」とある。申し込みをしている人の名前を見て、びっくりした。こちらの修道院には30人ほどのシスターがいるが、そのなかで最高齢103歳のシスターのしっかりとした自筆だった。この方は車いすに乗ってだけれど、自分で操作して動くことができる。ミサや集会や祈りの集いなどにも参加なさる。封筒が必要ということは、手紙を書かれるということか。手紙までか。すごいなー。

ガーコ?

私の部屋は三階にある。すぐ前は屋上になっているので、晴れているときは散歩に出る。今朝、屋上に出たら、目の前の木のてっぺんにカラスが飛んできて、カーカーカーと鳴いた。まさか裾野から来たガーコではないだろうと思ったけれど、私もカーカーカーと返事をした。