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消えた「携帯メール」

目覚まし時計を買うかどうかで迷っていた。すでにデジタルのを一つ持っているが、朝六時に起きるよう設定してある。私はほぼ毎日昼食後に昼寝をする。長く寝すぎないために、昼寝用の時間を設定したいのだけれど、現在の時計にたとえば2時にアラームが鳴るようにすると、夜中の2時に鳴るのじゃないだろうか。それに、日によって、2時ではなくてそれより遅く、または早く起きたい。 目覚まし時計をもう一つ買うことはしたくなかった。お金も使いたくないし、ものも増えるし。第一、近辺に時計屋さんがない。 私のガラケーにお知らせタイマーという機能があって、それを使ってみたが、アラーム音が小さくて目が覚めない。音量を上げればいいだろうと思い、携帯の取説書を眺めていたら、目覚まし機能があることに気が付いた。簡単に時刻も変更できある。私なりの大発見と大喜びしていた。 翌日の新聞記事で、しょんぼり。『三省堂国語辞典から消えたことば事典』というものがあるそうで、「携帯メール」「着メロ」「赤外線通信」などは2022年の『三省堂国語辞典』最新版から消えているそうである。そのうちガラケーそのものも消えるのかしら。 こんなささいなことで喜んだり・しょんぼりしたりできる平和に感謝。すべての人が平和を味わえる新年になりますように。  

三浦綾子著『母』を読んで

つい最近、かつての教え子さんから「ぜひ読んでください」と『母』(三浦綾子著)をいただいた。ずっと以前、同じ著者の『氷点』が朝日新聞の連載されていた。裏切りと復讐から展開する内容で、著者についていい印象をもたなかった。『母』をもらった時も、「なんだかなぁ」という感じだった。 せっかく頂いたし、と思い、読み始めたら、一気に引き付けられて、読みとおした。内容は、小林多喜二の老いた母が方言で語る想い出の形をとっている。彼女は貧しい生まれで、小学校にも行けず、読み書きができない。結婚し、貧しいが愛情深い家庭を作る。もうけた三男三女のうちの次男が多喜二である。 多喜二は「蟹工船」などで知られる、プロレタリア文学の作家である。29歳で 特高警察に逮捕され、拷問・虐殺されている。老女のたどたどしい語りを通して、思想統制と人権抑圧に対する著者の激しい憤りが伝わってくる。 読み終えてから、ふと、気になり、多喜二の誕生年を確かめた。1903年(明治36年)である。私の父の誕生は1904年(明治37年)だった。父は大学時代、ロシア文学を専攻した。物書きになることを望んでいたらしく、しばしば原稿用紙に向かっていた。でも、それは私が記憶があるようになってからだから、戦後のことになる。 「警察に行ったことがある」、「指を叩き潰された人がある」と話していたのを覚えている。ロシア文学を学んだ経歴故にその思想が疑われ、特高に呼び出され脅されたのではないか。 多喜二と同時代の父も、思いのままに書くことが許されなかったのではなかったか。今になって気付く。 二度と、あのような時代が来ないことを祈る。

心に残ること

めまいがあり、歩行器を使っている1人のシスターと同じテーブルだった時のこと。食事が終わると、その人は自分が飲み終えた薬のからの袋といっしょに、同じテーブルの私たち3人のから袋も集めた。薬のから袋は、食堂の片隅にある小さな所定の箱に入れることになっている。小さくても、なにか人助けをしようとしている91歳のシスター。 耳が遠くて、あまり会話に入れないシスター。食事が終わると、さっさと立ち上がり、バイキング用の大テーブルや周辺の片づけをする。大正15年生まれの97歳。「定職」のある97歳とは別人。 「イエス様がここまで導いてくださったのだから、これからも導いてくださるだろうと信じています。」自分の居室がわからなくなることがあるシスターの言葉。 きのうは私たちの修道会のアジア地域Zoomミーティングがあった。一番大きな内容は、フィリッピンで始まったアジア地区合同修練院についてだった。インド、インドネシア、フィリッピン、韓国から、合わせて20人ほどの人たちが来ている。残念ながら、日本人は一人もいない。若いシスターたちの卵は、私たちを元気づけてくれる。 養成担当のアメリカ人のシスターの言葉。 「養成が目指すのは、橋を架けること(=bridge making)。自分と自分自身のあいだ、自分と神さまのあいだ、自分と仲間とのあいだ。そのあいだに橋を架けること。仲間たちはそれぞれ国も違えば、文化も違う。その人とのあいだに橋を架けてつながることです。私も、それを目指します。私自身も変化することでしょう。」

幼な子のまなざし

認知症・統合失調症のお父さんの介護をしていた男性が書かれた記事を新聞で読んだ(毎日新聞朝刊11月16日付)。 下の世話を受けることで意気消沈していた父は、しばしば激高した。無力感と異臭におおわれていた時、保育園児だった息子が、「じいじのおむつ、でかっ!やっぱりえらいんだ。(おむつをはいていない)パパは仲間はずれ」と言った。また、3歳の誕生日に何が欲しいか聞かれて、「じいじの手品の歯がほしい。自由に歯を出したり、入れたりできるんだよ」と憧れのまなざし。 10年にわたる介護生活が幼な子の存在に助けられたとの記事に、笑わせられた。と同時に、幼な子をさして、「天の国はこのような人たちのものである」というイエスの言葉を実感した。         幼な子の まなざし澄みて 我を照らす  

失敗の聖人フィリピン・デュシェーン

「それ、もう食べたでしょ」 「あら、そうだったかしら。わすれてた」 きのう、お茶の時の会話である。お茶菓子は1人に一つずつ用意してあるので、一つ以上取ると、後から来る人の分がなくなる。でも、たった今、食べたことを忘れる人もいる。 同じ人が、 「そろそろ4時だから、行かなくちゃ」と言う。 「どこに行くの」とたずねると、 「4時からは、教皇様のために祈る」とのこと。 そばにいた人が、 「この方は、何曜日の何時に何のために祈るか、決めてるのよ」と、教えてくれた。 「すごい!先輩から教わることがいっぱいある」と私が言うと、 「私も先輩から教わったから。できることがほかに何もないでしょ。祈ることは、私の使命だと思ってるの」との返事。 今日11月17日は、聖フィリピン・デュシェーンの祝日である。フランス人女性で、1769年誕生。1805年、聖心会修道女として終生誓願を立てている。修道院と寄宿学校のために働きながら、アメリカに渡り先住民のために働く夢を抱いていた。アメリカに渡ったのは、1818年のことだった。紆余曲折を経て、1828年には6つの学校を仲間たちとともに運営するようになった。 先住民のために働きたいというフィリッピンの願いがやっとかなったのは、1841年。3名のシスターとともに、カンサス州のシュガークリークに赴き、ポトワトミ族のための学校の創立に献身する。そのときフィリッピンは72歳。働くことができず、ポトワトミ族の言葉を学ぶこともできなかった。でも、ポトワトミの人々は彼女を「いつも祈っている人」と呼んで、慕った。しかし、翌年には、健康上の理由から、シュガークリークを離れなくてはならなくなる。 ローズ=フィリピン・デュシェーンは1852年11月18日に83歳で帰天し、1988年に列聖されている。 この人の生涯を伝記で読んだりすると、失敗の連続のように思える。少なくとも、私だったら失意に沈んでしまうようなことの連続である。長年の夢であった先住民のために働くことがやっとかなったのに、何もできない。私ならめげてしまうだろう。にもかかわらず、自分にできる残されたこと=祈りを続ける姿に心を打たれる。 お菓子を食べたことを忘れたシスターに、聖フィリピンの面影を見る。

シルバー川柳

パソコンの中身を整理していて、ずっと以前に書きとめていたものを見つけた。 増えるもの しみ・しわ・たるみ もの忘れ 年老いて よき思い出も また増える 減っていく 年金・預金 髪の毛と歯 「ごちそうさま」 言うとき発見 不ぞろいの箸 メガネにも お探しサービス つけて 欲 ( ほ ) し 裏がえし 一日着てた 誰か見た? 受けた恩 新たに気付く 喜寿の春 五〇音 となえて探す あの 名前 失敗に 赤面する我 今いずこ 裾上げを やっと終えたら 表向き ファイルの日付を見ると、2012/11/29。10年以上前のことになる。修道院のメンバーが集まっていたときに、面白半分に作ったものだった。シルバー化はさらに重症化しつつある。新しい川柳を作るといいのかも。  

幸せな中学生

朝日新聞のひととき欄に「夢の中学生活」という記事が載っていた。中学生が投稿するの?と思い、記事末の投稿者を見ると、88歳とある。ナヌ!私と同年配! その記事によると、千代田区の公立中学校が、65歳以上を対象に通信教育の生徒を募集していた。投稿者は外資系会社に定年までつとめ、その後留学もした。心残りは、病弱で休みがちだったため、中学の基礎的勉強ができなかった。昨年4月にこの通信制中学に入学。登校日は月2回。年2回、校外学習がある。タブレットが貸与され、家で勉強もできる。理科の実験が楽しく、そのあと級友たちと話し合ったりする。 記事は10月19日のもので、1ヵ月近く以前のものになる。でも、すてきだな、と心に残った。投稿者と千代田区の両方に、「いいね!」マークを付けたくなる。

真珠を買う商人

修練期を終えて間もなく、アメリカで神学の勉強をする機会をもらった。1968年2月、私は羽田発サンフランシスコ行きの飛行機に乗っていた。アメリカに行くのは初めて、飛行機に乗るのも初めてだった。スカートが足元まである修道服を着て、その下には毛糸編みのペチコートをはいていた。飛行機のなかは暖かくて、途中でトイレに行って毛糸のペチコートを脱いだ。 隣の席の男性とのおしゃべりで、その方が真珠を扱う仕事をしていると知った。聖書にある真珠の商人のたとえ話を思い出した。「高価な真珠を一つ見出すと、持ち物をことごとく売りに行き、それを買う」というたとえである。「そんなものなのでしょうか」とたずねると、「そうですね」という返事だった。 その時以来、このたとえ話についてよく考えたことはなかった。さいきんになって、西経一神父の話を聞く機会に恵まれた。その講話のなかで、このたとえ話を取り上げられた。 「この商人は神さまですよ。あなた自身のことだと思っていたら、大間違いです」 という神父の言葉に、ハッとした。「買う」と「贖う」は同じ語だそうである。はっきりとしてではなくとも、ばくぜんと自分のことのように思っていた。 聖書(マタイ13:45-46)では、天の国がよい真珠を探し求める商人にたとえられている。「天の国」は、名詞ではなく動詞で、神のなさり方を意味すると理解できる。とすると 神が 私たちを、というか私を、すべてをさしおいて探しに来てくださる。それが神さまのなさり方だ、と理解すべきなのだろう。 私はすべてを置いて修道生活に入った、と頭のどこかで思っていた。けれど、現世的に考えても、すべてをいただいていた。アメリカへの留学だけにしても、そうだ。それ以来現在に至るまで、また現在も、すべてをいただいている。やっと、気付いたところです。

教皇、女性について語る

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  シノドス=世界代表司教会議が10月14日から29日にかけて開かれた。464人の出席者のうち、50人ほどが女性であった。これまでのシノドスでは、代表の司教が世界中から150人ほど集まり、特定のテーマについて討議し、結論を教皇に提言するというのが通常のやり方であった。今回は、信徒代表者や女性も投票権をもって参加した。 シノドスの形態そのものが新しい価値観を現している。 National Catholic Reporter というアメリカのカトリック新聞デジタル版10月25日付が、シノドスも閉会近くになった25日の教皇フランシスコの発言を報じている。以下に、その抜粋の私訳を記す。上記のシノドス会場の写真も同新聞による。 ―― 聖なる母なる教会が何を信じているかを知りたければ、それを教えるのが責務である教皇庁教義省に行きなさい。しかし、もし教会がどのように信じているのかを知りたければ、信徒たちのところに行きなさい。 信徒たち、神の聖にして忠実な民には良心があり、現実を見る方法をもっています。 シノドスに出席しているすべての枢機卿と司教たちは、この人々ーー通常、母や祖母から信仰を受けついでいます。 ここで強調したいのは、神の聖にして信じる人々は、信仰を方言、それも一般的に女性の言葉で伝えられていることです。 これは、教会が母であるばかりでなく、女性がもっともよく教会を映すからばかりではありません。女性たちこそ、どのように希望するか、どのように教会と信じる人々の力量を見つけるかを、多分恐れながらも勇気をもって限界を乗り越えるリスクを取る人々だからです。 ―― 教皇のこのような発言、 シノドスの新しい構成と形態などが、カトリック教会内の分厚いガラスの天井にひびを作りますように。

祈りは役に立つ?

「感ずべき御母」祝日前の9日間の祈りも終わった。世界の平和、とくにロシアとウクライナ、パレスチナとガザの平和を願って祈った。でも、なにか効果があったか、少しでも状況は良くなったのか、というと否である。祈りって役に立つのかしら、と疑いが頭をもたげる。自己満足のためのものに過ぎないのかな、とか。 祈りによって神を支配することはできない。それじゃ、何のために祈っているのだろう。いぜん、「波動による認知」で、次のような引用をした。 ――この世に存在しているすべてのものは、素粒子によって構成されている。 これらの素粒子は、光や音と同じように固有の周波数を発していることが分かっている。 波動の伝播性は高く、 どこまでも伝播する。 ―― 自分自身や他の人の幸せを自分を超える大いなる方に願うことが祈りだとすると、それは良い波動を自分のなかに生じさせ、遠くまで伝わっていくのではないだろうか。誰に、どこに伝わるのかはわからないけれど、いいエネルギーが必ず伝わるのではないだろうか。 ゴチャゴチャと理屈をこねまわしていたら、ホイベルス神父が書かれた「最上のわざ」という文章を 思い出した。      この世の最上のわざは何?      楽しい心で年をとり、 働きたいけれども休み、 しゃべりたいけれども黙り、      失望しそうなときに希望し、 従順に、平静に、おのれの十字架をになう――。     若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、      人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、      弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること――。     老いの重荷は神の賜物。 古びた心に、これで最後のみがきをかける。      まことのふるさとへ行くために――。     おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事――。      こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。     神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。      それは祈りだ――。  ...

マーテルの祝日を迎える

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10月20日は「感ずべき御母」、別名マーテル・アドミラビリスの祝日である。原画はローマにあるが、日本では複製が聖心女子学院の各姉妹校にある。神殿で祈り、勉学、手仕事に励む女性として聖母マリアが描かれている。ピンクの衣服が若々しさを表している。 私たちの修道院ではマーテルの祝日を迎える準備として、9日間の祈り=ノビナをしようということになった。具体的には、ロザリオの祈り一連(主の祈り+アヴェ・マリア10回+栄唱)を、12日から20日まで毎日、みんなで一緒に唱えよう、と話し合った。 そんな話をしていると、「私のポケットに入っていたロザリオが盗まれた」という人があった。「ロザリオなくても、指で数えられるでしょ」という人もいたが、「一つあるから、あとでもってくるね」という人がいて、一件落着。 「盗まれる」というのは、「知らない間に取り去られる」ということだろう。想い出・記憶・知識・能力などが、次々と自分から知らない間に取り去られていく。捨てたとか、手放したのではない。ロザリオが盗まれたと思った人は、日々、絶え間なく盗まれる体験をしているのだろう。 ピンクのマーテルを描いたポーリーヌ・ペルドローは、のちに老年のマーテルも描いている。ピンクのマリアは、糸を紡ぐ用意ができている。老年のマリアは、織り上げた布の糸を切ろうとしている。布はマリアの人生を現すのだろう。 マリアの時代、認知症などという病気は知られなかっただろう。でも、息子が犯罪者として十字架上で処刑される苦しみを体験した。その後、何年生きたのか知られていないが、老齢まで生きたとすれば、それなりの苦しみもあっただろう。 今年の20日のお祝い日には、ピンクのマーテルだけでなく、年老いたマーテルも想い描きながら迎えたい。

月と明けの明星

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  今朝、トイレに起きた。廊下の窓から月のそばで輝く金星が見えた。晴天なので、くっきりと美しい。廊下の向こうの方に、巡回している夜勤の介護士さんがいた。手招きして、いっしょに眺める。 部屋に戻って、時計を見たら、5時10分だった。