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母なるイエス

それこそ半世紀ほど前、アッシジで3か月ほどを過ごした。終生誓願を立てる準備のために、28名のシスターのヒヨコたちが7ヵ国ほどから集まっていた。スペインとアメリカから7,8人ずついたが、日本人は私だけ。共通言語はフランス語だったが、フランス人は一人もおらず、たがいに身振り手振りをまぜた会話だった。英語が通じたため、一人のアメリカ人とよくおしゃべりをするようになった。その人が Julian of Norwich が好きだと言ったことがあった。 なぜかその名前が記憶に残っていた。いつか読んでみたいと思ったが、そのうち、そのうち、と思っているあいだに半世紀が過ぎた。さいきんになってふとその名を思い出し、本を手に入れた。英語のその本は、アマゾンから届いてからも、机の上に置かれたままになっていた。 ノリッジのジュリアンについて、くわしいことはわかっていない。 名前は彼女が生活していたノリッジにあった ジュリアン教会に由来している。30歳のとき、大病を患い死の床にあったとき、一連の幻視(ヴィジョン)を見る。その2,30年後、十四世紀の終わりに、受けた幻視とそれについての自分の理解とを書きおろした。 Revelations of Divine Love (= 神の愛の十六の啓示)は、 女性によって英語で書かれた最初の本とされる。 読み始めてみると、神のいつくしみがどれほど深いかを、せつせつと書きつらねている。強く印象に残るのは、 たびたびイエスを Mother と呼ぶことである。    Jesus our Very Mother    our precious Mother, Jesus    our tender Mother Jesus    our heavenly Mother, Jesus などなど。 人を慈しみ、養い、導き、育てる存在として、58章、59章、60章、61章などで、くり返しイエスを母と呼ぶ。 カトリック教会では、ジュリアンは福者とされている。遠藤周作がカトリック教会の伝承のなかにこのような人がいると知ったら、喜んだことだろう。   概説 [ 編集 ] 彼女の生涯についてはほとんどわからない。名前すらも正確でなく、ジュリアンという名前は彼女が観想生活を送っていた ノリッジ...

老いについて

大学時代の同級生のご主人で現在、訪問診療をしていらっしゃる方から、聖書は「老い」について何と言っているかと尋ねられた。すぐに思い浮かばず、そう返事をすると、「『あなたが若かった時には自分で帯をしめて行きたいところに行くことができた。しかし、年をとると、あなたは両手を延ばし、他のものに帯をしめられ、行きたくないところに連れていかれるであろう』(ヨハネ21章18節)という言葉があるけれど」とのメール。 「そのとうりですね」と返信したけれど、何か物足りない思いが残った。人間的なつながりだけを見ればそうだけれど、神さまとの関係ではどうなのかが問いとして残った。少し調べてみた。今私の心に残っているのは、聖書の次の言葉である。    あなたたちは生まれたときから負われ    胎を出たときから担われてきた。    同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで    白髪になるまで、背負って行こう。    わたしはあなたたちを造った。    わたしが担い、背負い、救い出す。 (イザヤ書46章3⁻4節) 私たちの人生は白髪になるまで神さまに背負っていただいている。なにかホッとする。

被爆の残像

 ――広島で原爆にあい、瓦礫のなかから、私の父は妻か3歳の長女のどちらかしか助けられなかった。妻を助ければ、また子どもが生まれることもあるだろうと、妻を選んだ。その後、二人の女の子が生まれた。それが私の姉たちです。二人とも膠原病でした。―― 中3の時の教え子さんで、現在70代半ばの人から聞いた話である。長い間の付き合いがあったにもかかわらず、最近になって初めて聞いた。妻か長女を選ばなければならなかったお父さんは、どんなにつらかったことだろう。お父さんの心情も含めて、彼女にとって辛い記憶であろう。原爆は、今も人の心に痛みと悲しみを残している。

散歩道

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聖週間と復活祭

聖週間と復活祭が終わって、やっと日常生活に戻った感じである。濃厚なというか、あわただしい一週間であった。聖土曜日夕のミサが心に残っている。司式司祭が朗々と歌い、しっかりとした足取りで散水をされた。一時間半ほどかかる式で、ふつう私は退屈してしまうのだが、今回はそんなこともなかった。後で聞いたところ、司祭の名はキエサ。89歳になっておられると知ったが、みじんもお年を感じさせなかった。 翌日朝9時の復活祭ミサも大聖堂で行われた。私は大聖堂の後ろの方に座った。長いミサでは、途中でトイレに行きたくなることがあるからだ。クリスマスのミサほどではないが、けっこう大勢の人が参加しており、聖体拝領の行列も長かった。聖堂の後ろに座っていた私は行列の後ろの方になる。司祭の前に行って司祭が手にもつチャリスを見ると、5ミリ四方くらいのかけらが五つ六つ残っているだけ。その一つ二つをつまんでもらった。人生初体験である。多くの聖体拝領があったのは喜ばしいような、ちょっとわたし的にはわびしいような。

イエスと笑い

ドミニコ会司祭である米田彰男神父による『イエスは四度笑った』(筑摩書房、2024年)を読んだ。同書によると、『ユダの福音』という写本が存在するそうである。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる正典福音書成立直後に書かれたらしい。『ユダの福音』のなかで、イエスが四度笑っている。米田神父は、その笑いが、史的イエスの笑いではなく、異端グノーシス派の思想によるものであることを論証している。 それでは、イエスは笑ったことがなかったのだろうか。同神父は正典福音書に記されていないだけであろうとし、イエスのユーモアをかいま見せる言葉を拾っている。 米田神父著の同上書から私が初めて知ったことがあった。「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」というイエスの言葉の意味である。相手の右の頬を打つには、打つ方は右手の甲を使う。それは上位にあるものが下位の卑しいものを打つ時のやり方である。左の頬を出せば、こぶしで殴るか平手で打たなくてはならない。それは人間として対等であるものに対する暴力である。 イエスの聴衆は虐げられた貧しい人々であった。その人たちに、イエスは反逆する暴力でも忍従でもない、第三の道をすすめた。人として対等に扱われることを求める、第三の道を示した。

本当?

ケニアで30年間働いて、70歳で日本に戻ってきたシスターの話。 ――妹がケニアに来てくれた時、手に水を入れたコップをもって赤道の北側と南側に立った。すると水はそれぞれのコップのなかで反対周りになった。私のコップの水が時計回りだとすると、妹のコップの水は逆回りになる。―― 「どうしてコップの水が動き出すの」とたずねると、「磁気で動き出すのじゃないかしら」という返事。 本当かしら?という感じになる。そのシスターは認知症ではない。嘘を言っているわけでもないだろうし。

桜咲く

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聖心会の修道院で志願期を過ごしていた若い人が、3月いっぱいで会を出た。退会後は、高齢者社会で必要であろう介護職につきたいと、大学の3年コースと専門学校の両方を受験した。両方受かったので、大学を選んだとのこと。すでに大学で英文科を卒業している人である。 若いシスターの誕生を願っていた私にとってはとても残念だけれども、彼女が自分の道を見つけたことをお祝いしたい。

日常生活のミッション

きのう、聖心会日本管区の管区長交代のミサがあった。管区長の任期は3年で、2期が期限である。修道女たちの高齢化のなか、前管区長はほんとうにご苦労だった。渋谷修道院で夜に急病人が出ると、病院まで同伴するのは管区長さんとその顧問の人だったりする。介護職員では病院の手続きなどができないからである。管区全体への配慮のほかに、管区長と顧問が救急隊の役割もしてくださった。新しい管区長さんも、同じようなことになるかも。ありがたいと思う。 きのうのミサでは、司祭の説教も、旧管区長と新管区長の挨拶も、よく聞こえなかった。私の聞こえが少し悪いせいもあるだろうけれど、渋谷修道院聖堂の音響効果が悪いせいだと思っている。スピーカーの音がうまく広がらなくて、音がこもってしまう。私がかろうじて聞き取れた言葉に、「日常生活のミッション」があった。 介護施設にいて、あれもこれもお世話になり、何も人様のお役に立てない。でも、もし神さまが私がここにこのようにいることを望まれるなら、それを受け止めることが私のミッションだろう。

イエスの聖心について

教皇フランシスコの最近の回勅『 ディレクシット・ノス(Dilexit nos=私たちを愛してくださった)』は、イエスの聖心への信心についてである。私たち聖心会にとって大切なテーマなので、少しずつ一緒に読んで、心に浮かぶことを話し合っている。 ーー鹿児島市内にはいくつか教会があって母が教会に行き始めたので、付いていくようになり、26歳の時に洗礼を受けた。そのころ、司祭に叙階された方の記念カードをもらった。「イエスの心をわが心に」と書いてあり、いいなと思った。主任司祭の弟さんが静岡県内の聖心会修道院の敷地内に、 修道院付き司祭のような形で 住んでおられた。「上品な人たちだよ」(?!)と話された。どんな人たちか知りたいと思い、静岡に来た。ーー 5人くらいずつのグループで話し合ったのだが、この人の話が心に残った。修練院の同期だった。90歳に近くなって、初めてこんな話を聞かせてもらった。

いんやく りおさん

修道院の本棚には、いろんな種類の本がある。修道院が購入したもの、個人が購入して読み終えて共用の本棚に入れたものなどなど。その本棚からなにげなく手に取ったのが、いんやくりおさんの本、というか、いんやくさんの言葉を彼のお母さんが書きとったものだった。タイトルは『自分をえらんで生まれてきたよ』である。 いんやくさんは、お母さんのお腹にいるときから不整脈があり、3歳でペースメーカーを埋めこみ、慢性肺疾患があり、10歳でカテーテルアブレーション術を受けている。上記の本は、彼の9歳までの言葉を拾っている。いくつも心に響く言葉があった。下記はその一つである。    神さまがくれたものは、たくさんある。    まず、心。気持ち。いのち。体。    それから、考える、頭。    ぼくは、神さまからのプレゼントなんだ。    だから、自分をたいせつにする。    自分をたいせつにすると、    地球へのおみやげに、なるんだよ。 彼の6歳の時の言葉とある。この本が出版されたのは2012年とあるから、10年あまり以前のことになる。今はどうしていらっしゃるのか、グーグルで検索してみた。 9歳の春、沖縄に移住している。沖縄で缶から三線に出会い、奏者として音楽活動をされているとのこと。「缶から三線(サンシン)」が何かも知らなかったので、調べた。 三線の胴はふつう木材であるが、その代わりに空き缶で作られている。 戦後の沖縄で誕生した。 当時の沖縄は物質不足 で三線に用いる材料がなく、 米軍から支給される食料の缶を胴体に、廃棄された木材を棹に、落下傘のヒモを絃にして三線を組み立てたそうだ。 病気を抱えるいんやくさんが、空き缶から作られた楽器の奏者として活躍されていること、すてきだと思う。「 自分をたいせつにすると、地球へのおみやげに、なるんだよ」という彼に、「たしかにそうですね」と言いたい。

助け合い

私たちの食堂には、厨房に一番近い位置に大テーブルがあり、そこに食べものが置いてある。ほかに小テーブルが4つある。現在、その3つに4,5人ずつ座っている。テーブルメンバーは月ごとにくじを引いて決める。 各自は大テーブルに行き、自分のお皿に取り分ける。二切ずつとか一つずつ、と書いた札が置かれていたりする。 お皿に取り分けた後、自分の席がわからなくなって、戻れない人がいる。そういう時、声をかけて助けるのは、同じテーブルのシスターで、脳梗塞の後遺症で足が不自由な人である。自分の食べ物は、キャスター付き小型テーブルに乗せ、席に戻る。一度座ると、お箸やナイフをもってくるのを忘れたりすると、再び立ち上がるのは一苦労になる。認知症のシスターはそれに気がつき、取りに行ってあげる。 こんな助け合いを隣のテーブルから見ていると、心が和む。