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「神が右に・・・」

土曜日の夕方のミサに来てくださった神父は、3、40年前知っていた方だった。久しぶりだし見分けられるだろうか、と思っていた。やっぱり以前とはすっかり変わっていた。でっぷりと太り、髪の毛もずいぶん後退している。 ミサ中の説教で、彼は朗読の中にあった「主が私の右におられるので、私は決して動揺しない」という一節を取り上げ、右のこぶしを胸にあてて、「神が右におられる。恐れることがありません」と言った。 後になって、その言葉と彼のしぐさが思い出される。「神が右におられる」というと、私のイメージでは私の右に立っておられるのだが、なんだか心強くなる。

出会い

 構内を散歩していて、掃除しているおじさんに出会った。小柄な方で、私よりは若いだろうけれど、80歳に近いかと思った。落ち葉をのせた大きなリヤカーを押していた。何かお礼を言いたくて、「ありがとうございます」と言った。おじさんが何か言ったが、私は耳が遠くて、「え」と返すと、「風邪をひかないようにね」と。で、「おじさんもお元気でね」と言った。 夜ベッドに入ってから、例の「3 good things」をしようとしたら、一番にこのおじさんとの出会いを思い出した。一瞬のことだったけれど、おじさんの優しさが心に残っていたのだろう。

祈りを捧げる

修道院に入って以来、朝一時間、午後30分の黙想が習慣になっている。その時間に何をしているかというと、いろんな雑念が頭の中を行き来して、ぼーっと座っているだけが現状である。若いころ、祈りの時間は神さまの慰めというか、心が満たされるしあわせな時だった。近ごろはそんなことは全くない。若いころの慰めは、祈りに引き寄せるための甘いお菓子だったのかしら。 「ちっともいいこと、ありません」とつぶやいていて、ふと気が付いた。祈りは私が捧げるものだ。神さまから何かをもらうためにするものではない。修道院に入ることを願ったのも、重い病気をして神さまの愛を知り、神さまに自分を捧げようと願ったからだった。 「つたない祈りですが、お捧げします」と祈ればいいのだと気づいた。卒寿を迎えての気づき。ちょっと遅いかも。

「娘の成長」

お母さんが5歳のお嬢さんについて書かれた投稿記事「娘の成長」を読んだ。通勤の道すがら、お嬢さんを保育園まで送っていくときのこと。 ――ある朝、娘と登園途中に二人で空を眺めていると、分厚い雲の隙間から一筋の太陽の光が差し込んでいた。それを見て娘は「神様が下りてくる道じゃない?」と不思議なことを言った。  翌日はどんよりした雨模様の空だった。その日も娘は「神様、お風呂に入っているんじゃない?」  朝の忙しい時間に空を眺めて神様を想像できるわが子を見て、ふと「他と比べなくてもいいのかも」と思えた。――    毎日新聞朝刊4月4日 「わたしの気持ち」欄より 幼い子どもはどうして神さまに近いのだろう。神さまから出てきたばかりだろうか。成長するにつれて、神さまから離れていくのかな。そして子どもに気づかさせてもらうのかしら。 聖書には「あなたたちは心を入れかえて幼な子のようにならなければ、天の国には入れない。」(マタ18:9)とある。

「暦と時計」

6時に目覚まし時計で起きてまなく、介護士さんがお薬をもってきてくれた。骨粗鬆症の薬で月の初めに飲むことになっている。月が替わったことに気が付く。壁にかけているカレンダーを見ると、まだ3月だ。1枚めくって4月にすると、「暦と時計」というタイトルの、金子みすゞの詩がのっていた。      暦があるから      暦を忘れて      暦をながめちゃ、      4月だというよ。      暦がなくても      暦を知ってて      りこうな花は      4月にさくよ。      時計があるから      時間を忘れて      時計をながめちゃ、      4時だというよ。      時計はなくても      時間を知ってて      りこうな鶏 (とり) は      4時には啼 (な) くよ。