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火傷をした

一階の食堂でマグカップにお茶を入れ、エレベーターに乗って3階の自分の部屋まで戻った。3階には、エレベーター前から10室が並び、角を曲がってさらに9室が並んでいる。私の部屋は、その9室の一番先にある。 カップの取っ手をもっている左手の中指がカップに触れて、熱いと感じたが、とにかく部屋まで行かなくちゃと思い、がまんして部屋にたどり着いたときには、中指のカップに触れていた部分が真っ赤になっていた。ひりひりするのでバンドエイドをもらおうと、看護師さんのところに行った。 看護師さんは「いつのことですか」とたずね、「5分前です」というと、指に水道水を5分間ほどかけ流しにした。それから「これは優れモノのバンドエイドです。水は通さないけれど、空気は通すのです」と言って、指に貼ってくださった。 3日ほど前のことになる。今日、バンドエイドをはがしてみると(あいだで何度かバンドエイドを交換した)、赤いあとが残っているが、痛みはもうない。 このできごとから学んだことは、 1)熱いものは、すぐ手から離すこと 2)火傷には流水がいいこと 3)バンドエイドも進化していること

宵の明星

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きのう夕食後の8時ごろ、仲良しのシスターが「ちょっと、ちょっと」と手を引っ張る。「なに?」と聞いても返事をしないで、廊下の向かいにあるドアを開けて、屋上に引っ張り出された。そして夜空を指さして、「お月様、きれいでしょ?」という。空を見上げると、たしかに三日月が輝いていた。 私が「ハッ」としたのは、三日月にではなく、その上方に二つの大きな星が輝いていたからだった。どちらかわからなかったが、一つは宵の明星に違いないと思った。私は明星キチである。シスターにお礼を言って部屋に戻り、天文サイトで調べた。 やっぱり下方の星が明星で、上の方が木星だった。晴天の夜空に輝く宵の明星を久しぶりに見られて、とても嬉しかった。 下に天文サイトの記事をコピーした。これによると、金星は月の下方に見えるが、私が見たときは、時間的に少し後だったためか、月の上方に見えた。

シスター山田の帰天

4月29日、シスター山田キミ子が帰天した。99歳だった。誕生日は1927年1月7日とされている。ただ、洗礼証明書の日付は12月27日だそうである。生まれてすぐに洗礼だったのではないかと考えると、誕生はそれ以前だっただろう。当時、生まれてすぐに数え年1歳で、元旦に2歳になるから、誕生日を遅らせて届けられたと考えられる。 私は現在の修道院に4年ほど前に移って、シスターと初めて出会った。そのころはまだ元気で、背中が曲がっていたけれど、歩行器も使わず歩くことができていた。年下のシスターで手足が不自由な人を訪ねては、着替えを手伝ったりしていた。食堂では、食事の終わったお皿類を集めてキャスター付きミニ・テーブルにのせ、洗い場へ運んでいた。「足が痛いでしょうから、しなくていいですよ」というと、「私の仕事を取らないで」と言われるので、していただくことにしていた。 そのうち足も弱り、歩行器が必要になって、食事が配膳される食堂に移つられ、おしゃべりする機会もなくなった。 シスターは渋谷区でただ一人の被爆者手帳をもつ人だったと聞いている。長崎の原爆投下のときには、シスターは修道院に入っており、直接に被爆はしていない。原爆投下の3日後、長崎に戻った時には、家は瓦礫となり、家族は全員死亡。市役所に行き、涙が止まらず泣き続けたのを、受付の女性がずっと一緒にいてくれたそうである。 食べものもなく、その辺にあったカボチャを食べたところ、吐き気と下痢でおかしくなった。それで被爆したらしい。 戦後、シスターは東京聖心女子学院で印刷室の担当だった。低学年の生徒たちの課外の世話係を長年された。おもらしなどをした子どもを優しくなだめながらお世話なさったと言い伝えられている。 シスターの亡くなられた日の夜、皆でシスターをしのんで祈っているとき、私は涙があふれた。とても身近な人がいなくなった感じがした。 シスターの葬儀ミサのなかで、神父が 「シスターはいなくなったのではありません。神さまの世界に入ったのです。だから今、ここにいるのです。見えないだけです。」 と言われた。 「大丈夫、大丈夫」という、シスターの口癖が聞こえる気がする。