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宮崎の靴屋さん

朝6時25分から始まるラジオ体操で、私の一日が始まる。5分ほど前にテレビの前に座り、体操が終わると、ぬるま湯を飲みながら10分間ほどテレビを見ながら一息つく。 その10分ほどの間に、宮崎の靴屋さんを取り上げていた。ご主人は、子どもの頃の小児麻痺の後遺症で、今でも2本の杖を使って歩いておられる。足が不自由なので、遠くには行かれない。靴屋をすれば、その靴が自分の代わりに遠くまで行ってくれる。 だから靴屋になろうと思い立ち、奥さんと47年間、靴修理をしておられるとのこと。 修理に出すほどの靴は、いろんな思い出が詰まっていることだろう。靴をもちこむ人は、その靴の歴史を話したりするだろう。「お母さんが就職祝いに買ってくれたブーツなのです」と、かかとのはがれたブーツをもってくる若い人。長年履いていて、愛着のある靴、などなど。「靴にはそれぞれ歴史があります」とご主人。 ご主人が修理した靴を、奥さんが磨いて仕上げる。仕上がった靴が、自分の代わりに行く先を想像なさるのだろう。「二人で一人前です」と話す高齢のご主人は、幸せそうな笑顔を見せておられた。

小林稔侍とじゃがいも

最近は再放送のドラマでしか見かけることがなくなったが、小林稔侍という俳優さんがいる。「税務調査官 窓際太郎」や「駅弁刑事 神保徳之助」などのテレビドラマで、長い間、楽しませてもらった。地味で、ちょっとひょうきんで、けれんみがない演技に好感がもてた。それに少し弟にも似ていた。 いつのころからか、私はこの人に「ジャガイモ」というあだ名をつけていた。「今夜はジャガイモのドラマがある」とか、「ジャガイモが今度、映画に出るそうよ」というふうに。 少し以前に、たまたま、この人がTVインタビューで次のように話すのを見た。 若いころ、東映のオーディションを受け、合格した。同期で合格した人たちは、みな、男前で演技も映える人たちだった。そんななかで、自分は泥臭いじゃがいもでしかなかった。それなら、じゃがいもに徹しようと決心した。 胸を突かれる思いがした。彼は、ありのままの自分で演技をするという志を貫いておられたのだ。その志が、彼の演技から伝わってきていた。 ジャガイモさん、バンザイ!  

カメと神さま

数年前、8日間の黙想のため、琵琶湖畔にある祈りの家に行った。残念なことに、今はもう閉鎖されてしまったが、建物1階の一番奥が食堂で、湖水に面していた。全面がガラスの引き戸になっていて、そこを開けると、ちょっとした石畳、5メートルほどの白い砂地、そこに琵琶湖のさざ波がよせていた。 1日目の朝早く、ちょっと外に出ようとした。玄関は食堂の反対側にある。玄関のドアを開けると、ドア・マットの上に小さな、小さなカメがいた。3センチほど。踏みつぶされるといけないと思い、つまんで、傍らの茂みのなかに置いた。笑われるだろうけれど、そのカメを見たとき、神さまが待っていてくださったような気がした。 私は長い間、古代日本人の信仰の形を知りたくて、あれこれ調べてきた。古事記や日本書紀は、政治的な意図で編纂された文献だと考えるようになり、それ以前の信仰の形はどのようだったのか、追いかけずにいられなかった。そして見つけたのが、古事記や日本書紀以前に書かれたことが立証できる丹後国風土記に書かれた浦島伝説を見つけた(詳しくは拙著『浦島伝説に見る古代日本人の信仰』)。 丹後国風土記によれば、カメは神の取る一つの姿とされていた。古代、そのように信じる一大豪族が存在した。カメを見て神さまが待っていてくださったと思ったりするのは、浦島伝説にズブズブにはまっていた私の自然の反応だっただろう。 朝、二階の窓から庭を眺めながら、歯を磨いていた。指導司祭が前日の講話で、「歯を磨くのも顔を洗うのも、奉献生活の一部」と言われたことを思い出しながら。すると、カメが庭を横切るのが見えた。二階から見えるくらいだから、初日のカメより大きかった。20センチ以上はあっただろう。アレッ、神さまが私のなかで大きくなったのかな、と思った。 最後の日の夕食、皆、沈黙で食事をしていたが、一人のシスターが「カメが泳いでいる」と、大声で湖を指さして言った。見ると、何匹ものカメが頭だけ水の上に出して、こちらの方に向かって浮かんでいた。さようならを言いに来てくれたのだろう、と思った。 翌日の朝、 もうカメともお別れだと、少し淋しく感じながら 黙想の家を出た。 京都駅から新幹線に乗った。指定席は車両の一番前の席だった。 座って目を上げたら、目の前の壁にポスターが貼ってあった。中央に 左向きのカメの写真だけが車のように大きくのせられ、キャプションに「エ ...

幼稚園時代

 6歳のふうこちゃんの記事を読んで、自分の幼稚園時代を思い出した。 幼稚園にもっていく手提げ袋や、行った日にシールを貼ってもらうお通い帳に書かれていた私の名前はサナヘだった。サナエなのに、サナヘと書かれるのはいやだった。母に言って、幼稚園の先生に話してもらった。先生の答は、苗の仮名はナヘですからサナヘです、とのこと。がっかりした。現代仮名遣いで苗はナエになったから、今ではサナエと書ける。 ある朝、セーターの首元のボタンを留めるとき、素敵なことを思い付いた。一番上のボタンを一つ下のボタン穴に入れ、下のボタンを上のボタン穴に入れた。幼稚園についたら、先生が「今日は自分でお洋服を着たの?」と言って、ボタンをはずして、入れかえた。「大人って、なんてつまらないのだろう」とその時思ったことを、今でも鮮明に思い出す。大人は5,6歳の子どもがどんな目で見ているか、思いつかないのだろう。

種まきのたとえ話

種まく人のたとえ話が聖書に記されている(マタイ13以下)。種をまいた人の種が、道端や石地や、いばらの中に落ちた。それらは育たなかった。しかし、よい土地に落ちた種は百倍の実を結んだ、というたとえ話である。 この話を聞いた6歳のふうこちゃんが、神様に書いた手紙に、こんな風に記したという記事を読んだ。(『福音宣教』2021年6月号)  きょうかいで たねまきの おはなしを きいたの。  たねが むだに ならないように  かみさまの おはなしを  よく ききましょうって いったけど、  ふうこは あの たねたちは  むだにならないって おもう。  だって みちに おちた たねは とりさんが たべたし、  いしのうえや いばらのなかにおちた たねは  めをだして ひょろひょろでも  むしさんが たべたと おもうよ。  だから だいじょうぶ。  たねは むだになんか ならない。   (横田幸子編著「かみさまおてがみよんでね」コイノニア社) 聖書学的には、たとえ話は寓話と異なるという説明を聞いたことがある。寓話は、話のそれぞれの部分が何かにたとえられているのに対し、たとえ話は全体として一つのメッセージをもつ。種まきのたとえでは、種が大きな実を結んだというのが、本来のメッセージであった。 聖書の種まきのたとえを聞くと、私たちは「自分はどこに落ちた種だろうか」と心配になる。でも、イエスは私たちが自分や他人をとがめるためにこの話をしたのではないだろう。神のまく種はかならず実をむすぶ、と伝えようとしたのだろう。 ふうこちゃんは、イエスの思いをしっかりとつかんでいる。  

見えない助っ人マックス

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もう30年あまり以前になるが、アメリカの修道院に1年ほど滞在した。その折に出会ったシスターが「マックスに頼めば、駐車場のスペースでも見つけてくれるよ」と言って、はがきサイズのカードをくれた。カードはマキシミリアン・コルベ神父像の写真であった。シスターがマックスと呼んだのは、コルベ神父のことである。コルベ神父は、知られているように、アウシュヴィッツ強制収容所 で餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなり、1941年8月14日に亡くなった。1982年10月10日、カトリック教会によって列聖されている。 大学の教授で、日ごろ沈着冷静なシスターが面白いことを言うな、くらいの気持で受け取っていたので、アメリカ滞在中は、マックスのお世話になることもあまりなかった。それでも日本に帰るとき、例のカードはちゃんと持ち帰った。シスターの言葉をまったく無視できなかったからだろう。 それからは、たびたびマックスのお世話になっている。印象に残った例がいくつかある。一つは、何年か前になるが、私の知人の体験である。「クラッチバッグを山手線のなかに置き忘れたらしい」と彼女から電話があった。クレジットカードや現金も入ったままで、カードはカード会社に電話して止めてもらったけれど、どうしよう、と泣き出さんばかりだった。どうすればいいのか、なにか助けてあげられないか。電話を受けながら、ふとマックスのことを思い出した。その人は、カトリック信者でもなかったけれど、「アメリカ人のシスターに教わったのだけれど、マックスにお願いしてみたらどうかしら。信じないかもだけれど、ためしにお祈りしたら」と言ってみた。2,3日後だったと思う。彼女からの電話で、警察から連絡があり、バッグが届けれたとのこと。中身もそのままだったらしい。 このごろ私は度々マックスのお世話になる。先日はカーディガンのボタンが一つ無くなっているのに気が付いた。ボタンたった一つだけれど、私にとっては大事件である。同じボタンはまず見つからないだろう。同じようなものを一つだけ買って付けるわけにはいかない。五個買って、みんな付け替えなくちゃならない。アーーア 。 マックスにお願いした。そのあと、最初に出会った人に、「ボタンを失くしたのだけれど」と言ったところ、「どんな色?」「グレーっぽいの」「ちょっと待って」と言って、彼女は家のなかに入り、そのボタンを手に出てきた。...

両手で顔を洗う喜び

右手中指がばね指になり、ステロイドを2回注射したりしたが、痛みが我慢できなくなり、手術をしてもらった。手のひらの指の付け根部分を2センチほど切開して、滑膜をとりのぞくということだった。手術の準備に1時間以上かかったが、手術そのものは15分ほどだったらしい。「らしい」というのは、手術台に寝かされ、伸ばした腕の付け根のところにカーテンがかけられて、向こうは見えない。手は部分麻酔。なにが起こっているのかわからないうちに、手術は終わっていた。 手術箇所をぬらしてはいけないとのこと。水仕事をするときは、お料理などに使うポリエステルの手袋をはめた。手術した指は腫れており、包帯もしているので、手袋も指先くらいしか入らない。朝、顔を洗うとき、ポリエステルで顔をなでるのも嫌で、左手だけで洗っていた。洗うというか、水で顔をぬらす感じである。 2週間ほどして、やっと抜糸になった。抜糸というから、切開部分を縫った糸を引き抜かれることを想像していた。実際は、切開跡のかさぶた状のものをピンセットで取り除くだけのことだった。 翌日から水を使ってよいとのこと。 待ちに待った朝、顔を洗った。片手でぬらすだけでなく、両手で顔を洗った \(^o^)/。 こんなに嬉しいこととは思わなかった。当たり前だと思っていたことが、そうではなく、ありがたいことだったとわかった。

人間の本性的祈り

遠藤徹先生がお書きになった次のような文章が、心に残った。 神様と呼びかけるかどうかは別として、 「助けて!」という心の叫びを、誰に向かって発しているのか分からずに、発している ということは間違いなくあるのではないか。発しようと 「意志する」ことなどなしに、思わず、つまり「自然に」、「自ら」、 発しているのではないか。 この「自然(nature)」には紛れもなく人間の自然本性(nature)が、人間という存在の根本的な成り立ちが、無為の内に、無垢のままの状態で、露呈しているのではないか。神とは本来そういう場面で初めて、根源的に、本源的に、出会うものではないか。 神が先に存在していて、その神に向かって助けを求めるのではない。誰に向かって発してい るのかわからずに 「助けて!」と思わず叫んでいる――その先にあるもの、その叫びが向かっている何か、究極的な、絶対的な何か、それが「神」なのである。 (太字原文ママ) 注1 「よかった」というのが、この文章を読んで、私の最初の反応だった。神はいつでもそこに存在している。人はそれを本性的に知っている。いずれかの宗教的信仰と関係なく。すべての人が、一人残らず、助けを必要とするときには、叫びをあげる相手がいる。自然本性的に神とつながっている。犯罪者であろうと、無神論者であろうと、である。本人は「神など」と言うとしても、私は「よかった」と思う。 次に思ったのは、祈りは私が考えるより単純なのではないかということだった。思わず「助けて!」と叫ぶときに、神と根源的に出会う。心の思いをそのまま神に向かって言うことにより神と出会う。とすると「祈り」は、七面倒くさいものではない。誰にも話せないわだかまりを心に抱えることがある。思いがモヤモヤして、言葉にできないこともある。それをそのまま神に話すこと=「祈り」なのであろう。 注1 「聖書の神観は現代の科学的世界観と、果たして、また、どのように、折り合うか」『宗教と文化 37号』、聖心女子大学キリスト教文化研究所、2021年。

一つの出発点

20代の終りころ、急な腹痛で病院に行った。内科のお医者に「妊娠しているのじゃないか」と言われ、腹が立った。婦人科に回され、卵巣嚢腫(のうしゅ)で、右側の卵巣を切除する必要ありと診断された。すぐに手術となった。聞いたこともない病気で、医者の説明もよくわからず、癌だと思い込み、これで死ぬのだと思った。「人生を棒に振った 」という思いが来た。家族や周りの人に迷惑をかけたばかりの人生だった。直近では、見合いをして結納まで交わしておきながら、結婚案内状を出す寸前になって取りやめていた。嫁入り道具を親族・近所にお披露目するため、着物を詰めたたんす一本を用意するように言われ、私の2度目の母はすべて調えていた。それを破談にして、家族にかけた心労・経済的負担も大きかった。 もうやり直すこともできない。後悔と絶望のどん底にいた。そのとき、突如、あたたかい温もりで包まれた。神さまだ、と思った。 私の予想ははずれ、1週間あまりで退院となった。父が迎えに来てくれた。タクシーが教会の前を通りすぎるとき、「私のこれからの人生はあなたのものです」と心の中で言った。 修道院に入ると家族に告げたところ、二人の弟たちは大笑いで、上のやつは「1週間しないで帰ってくるよ」とのたもうた。 弟の予言に反して、老年の今も修道院にいる。 修道院に入ってから、1度、「死ぬ」と思ったことがある。40代の終り頃、朝、起きようとしたら、クラクラッとし頭が上げられない。枕もとの内線電話にも手が届かない。これで死ぬのかな、と思いながら、意識が薄れていった。どのくらい時間がたったのか、しばらくして目が覚めた。お医者に行ったら、「症状があるときに来なければ、わからない」と言われた。「起き上がれないのに、来られるわけないでしょ」と、心の中でぼやいた。後遺症もなく、今に至っている。

人生の到達点

小堀鷗一郎先生がにお書きになった「人それぞれの老いと死」(「 一冊の本」2021年4月号)という記事を読んだ。先生は40年の外科医としての活躍ののち、訪問診療医に転じて15年になられる。お仕事ぶりはテレビなどでもたびたび放映された。 二つの事例が印象的だった。 事例1  76歳の男性。妻と二人暮らし。胃がん末期で、食事もほとんどとれない。病院を退院して自宅に戻った。その理由は好きな酒が自由に飲みたいため。小堀医師は、酒は好きなだけ飲んでよいと許可。翌日から彼の枕元にはウイスキーボトルが置かれ、ボトルの口には飲み口に接続したチューブが取り付けれた。彼は好きな時にボトルの中身を飲むことができる。食欲も一時的に旺盛となった。最後が近くなった頃、小堀医師はもらっていた高級ウイスキーをもちこみ、乾杯をした。 事例2  72歳男性。身寄りは全くなく、生活保護受給の独居。脳出血による右半身まひで入院していたが、歩行訓練もほとんど行わず、担当医の許可なく退院。極端なヘビースモーカーで、退院を強行した理由は喫煙を自由に行うためであった。自室から300m離れたたばこ自販機までの自力歩行を目的としたリハビリを開始。往復600mの戸外歩行が可能となるまでに一年間を要した。自力で往復できるようになった初夏、自販機への道で死亡していたことを、警察から知らされた。 簡略に引用させていただいたので、原文の魅力を半減させているだろう失礼をお詫びする。 飲酒や喫煙など、はた目にはとるに足らない事柄に見えても、当人にとっては生死をかけた「生活の望み」の実現である。いずれもが当人にとってはかけがえのない「人生の到達点」と言える、と小堀先生は結ばれていた。 人それぞれの到達点を尊重できるだろうか、私自身はどのような到達点を望んでいるのだろうか。考えさせられた記事であった。

3 good things=三つのいいコト

2,3年前になる。病院で順番を待っていた。退屈なので、待合室の書架に置いてあった医療雑誌を手に取った。”3 good things"という記事に目が留まった。眠る前に、その日にあった「三つのいいコト」思い出すと、脳内でハッピー・ホルモンが分泌されるメカニズムが紹介されていた。くわしいことは憶えられなかったが、やってみよう、と思った。寝る前の感謝の祈りになる。 さっそく、やり始めた。ベッドに入ってから三つのいいコトを思い出すのだが、そのために結局一日を振り返る。散歩していて、名前も知らないきれいな花を見つけた;久しぶりのいい天気だった;やらなくちゃと思いながらしていなかったボタン付けをした;などなど。そんなことを思い出していると、お知り合いの方が手造りの食品を届けてくださったのに、すっかり忘れていたことに気づいたりする。何もなかったような一日なのに、けっこう、いろいろある。おわりに「ありがとうございました」と神様に感謝する。 三つのいいコトを始める前から、ふとんに入ったらお腹を「の」の字に60回撫でることをしていた。「三つのいいコト」は、その前にすることにした。このごろは、お腹ナデナデの途中で眠りに落ちてしまったりする。 一日を振り返って過ちなどを反省するのも必要だろうけれど、それは寝る直前でない方がいい気がする。

霊は存在する?

ぼんやりとテレビを見ていた。一人の女性についてだった。15歳のとき、母は娘と夫に「死んでもみんなを見守っているからね」と約束して亡くなっていった。25歳になって、女性は結婚が決まり、母の着物を取り出して、母を思い出していた。その後、買物に出かけていると、父から「大急ぎで帰って来い」との電話。帰ると、「見ろ、見ろ」と父が柱時計を指さす。その針が前後に振れたり、グルグルと回ったりしている。「お母さんだ」と言って録画したものが、テレビで放映されていた。 こういうものを見ると、すぐに、インチキだと思いそうになるが、自分の体験を振り返ると、そうとばかり言い切れなくなる。 40年あまり前のことになる。高齢で京都の病院に入院していた父を、東京から見舞いに行った。戻ってきて、数日後の夜、突然、ガチャンと音がした。足元に私の腕時計が落ちていた。時計のバンドが切れている。鎖が連続してつながっている仕様のバンドで、簡単に切れるものではない。短くするには、つなぎの一部を針状のもので突いて外さなくてはならない。ハッと思い出した。父が時計のバンドがゆるいから、短くしてほしいといっていたのに、忘れて帰ってきていた。その2,3時間後、京都から電話があり、父が亡くなったことを知らせてきた。 一昨年、病気の弟を見舞おうと三島駅のホームに向かう階段を上っていると、携帯が鳴った。弟の娘からで、「たった今、亡くなりました」と知らせてきた。そのまま京都に行き、亡くなった弟と別れをして、その日に帰宅した。翌日、ご飯を炊こうと、炊飯器を見ると、時刻表示が8時で止まっている。現在時刻表示はリチウム電池で動いているから、止まるはずがない。ご飯を炊くためには、取り出してきた取扱説明書を見ながら、表示の現在時刻を訂正しなくてはならなかった。私が三島駅に着いたのは9時頃だった。8時には、私はまだ修道院にいた。 父も弟も、息を引き取る前に、私に会いに来てくれた。 時間と空間を超越する霊。その存在を、私は信じない。体験として知っているから。