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鳥の言葉

シジュウカラの鳴き声を研究し、それが言葉であり、文法をもつことを見つけた人がある。鈴木俊貴氏で、近著『僕には鳥の言葉がわかる』(小学館、2025年)には、シジュウカラの言葉の研究の過程と成果が、わかりやすく、楽しく述べられている。 シジュウカラは自分の仲間たちばかりでなく、同類の鳥たちやリスともコミュニケーションができるという。ジェスチャーでコミュニケーションをとることもあるとか。 ―― 「動物には言葉がない」 、「人間が最も高度な動物だ」、「人間は自然を支配する特別な存在だ」と言葉を並べ、そう思い込んできたのである。  そして、とうとう動物たちの言葉を理解できなくなってしまった。それどころか、自然とのかかわり方も、共生から利用へと変わってしまったのだ。今日解決されていない諸々の環境問題も、こうした井の中の蛙と化した人間たちの暴走によるところが大きいと、僕は思う。このままでは、そう遠くない未来、人類も地球も滅びるだろう。 ――(同上書161-162頁) シジュウカラは人間と同じことができない。しかしシジュウカラから見れば、人間ができないことがいろいろある。飛ぶことができない、シジュウカラ語を話すことができない。自分も動物であることを忘れかけている私に思いださせてくれることが詰まっている本だった。 カラスの言葉がわかりたいなぁ、と思った。

姿を消すスズメ

ミソサザイについて書いた9月3日のブログで、スズメを見かけない気がすると書いた。9月8日の朝日新聞朝刊の記事で、私の気のせいでないことを知った。 ーー環境省と日本自然保護協会の調査による2024年10月に発表された内容のまとめによると、15年度以降、スズメは1年あたりマイナス 7.4%と急激に減っている。減少率だけで見ると、絶滅危惧種の判定に相当する減り方である。また、08年度から22年度のデーターを解析すると、スズメの個体数が、15年のあいだに約40%減っているーー AI などの技術的な発達と並んで、自然界は次第に貧しくなっているのだろうか。私たちの生活の質はより豊かになっているだろうか。疑問になる。  

言えなかったことば

「英語が話せないんです」情けなくて…という感じで若い人が言った。その場にいた私と同年配の人が「英文科卒なのに?」と言った。 すでに惨めな思いを話している人に対して、ひどいことを言うと思った。でも、どう言えばいいのか、言葉ば見つからない。黙ってその場にいた私は、その言葉に賛成していたことになる。 そろそろ卒寿を迎える私たちが学生のころ、聖心大の一年次生は、8時から10時まで10分の休み時間をはさんで英語授業だった。一学年110人くらいの時代で、能力別に10クラス位に分かれていた。10人そこそこのグループで英語国人のシスターに教わった。当時、土曜日にも授業があったと思う。語学学校のようなもので、うまくならなければおかしい環境だった。さいきんの状況とは、全く違う。 それに英語が話せるからって、別に上等な人間であるわけでもなし。私のなかでいろいろな思いが重なり、言葉にできなかった。 今になって、そのまま「なんてことを言うの」と言えばよかったと思う。自分にダメ出しをしたくはないけれど、やっぱり後悔する。

戦争トラウマ

戦後80年になって、近頃の新聞で戦争トラウマについての記事をたびたび見受ける。そのたび、私が娘時代に通っていたカトリック教会の司祭を思い出す。主任神父はアメリカ人で、その人は助任だった。戦時中、一兵卒として従軍したが、戦後、司祭職に戻られたと聞いていた。夜中になると大声で叫ぶといううわさがあった。 あるときからこの方の姿が見られなくなった。司祭をやめられたとのことであった。辛くて苦しい記憶を抱えておられたのであろう。 名もない多くの人にも、戦争の残酷な爪あとは残っているのだろう。知る人もなく。

ミソサザイ!?

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私の部屋は3階にあり、中庭に面している。木々がうっそうと茂って、部屋の窓の前まで伸びている。朝6時半ころ、部屋で窓に向かって祈っていると、この木に小鳥たちがやって来るのが目に入る。まっ黄色だったり濃いブルーだったり、見たこともないような鳥たちのことがある。東京生まれ・東京育ちのシスターに尋ねると、近くにある目黒自然教育園にいる小鳥ではないかという。 2・3日前に来た鳥は、スズメより小さかった。しゅんかん、「ミソサザイ」と思った。自信はないけれど、80% そうだと思う。次の日も来た。チョコチョコと姿を見せたが、すぐに見えなくなった。 自然が少ないと思っていた東京で、こんな小鳥たちに出会えるのは嬉しい。それにしては、このごろスズメをあまり見かけない。