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ひとつのことば

 「ひとつのことば」という北原白秋作の詩を知った。     ひとつのことばで けんかして    ひとつのことばで なかなおり    ひとつのことばで 頭が下がり    ひとつのことばで 心が痛む    ひとつのことばで 楽しく笑い    ひとつのことばで 泣かされる    ひとつのことばは それぞれに    ひとつのこころを 持っている    きれいなことばは きれいな心    やさしいことばは やさしい心    ひとつのことばを 大切に    ひとつのことばを 美しく 一つの言葉をいつも大切にして、美しい言葉を言いたいと思う。でも私の現実は、きつい言葉は簡単に、瞬間的に口から飛び出す。そのくせ、「嬉しかった」とか「好きよ」とか、やさしい言葉の方が、言いづらい。照れくさくて、あまり言ったこともない。 もう亡くなった下の弟が、生前、晩酌でいい気分になった頃に電話をかけてくることがあった。あれこれ、なんとないことを話した後、「お姉ちゃん、愛してるよ」と言うことが、何度かあった。私もつられて「私も愛してるよ」と言った。そのあとは、「おやすみ」「おやすみ」で電話を切った。 「私も愛してるよ」は、弟の酔いに乗った感じだったが、事実だった。弟が生まれたときに、母は産後の肥立ちが悪く、1週間ほど後に亡くなった。私が9歳の時だった。それから同居していた祖母と一緒に、弟に哺乳瓶でミルクを飲ませたりしたから、母親気分もあったと思う。それにしても、弟のほろ酔い気分につられてでなければ、絶対、口にしなかっただろう。 弟が残してくれた言葉を思い出すと、嬉しくなる。

井の中の蛙の復権

「井の中の蛙、大海を知らず。されど」の続きが気になって、ネットで検索してみた。まず「井の中の蛙、大海を知らず」は、 『荘子』秋水篇にでている故事に 由来し、 見識の狭いことを意味するという点で、一致している。 つづく「されど」以下には、「されど空の蒼さを知る」 「されど天の高きを知る」「されど地の深さを知る」「ただ天の広さを知る」などがあげられている。この部分は、 中国から伝わったのではなく、 日本に伝わった後に付け加えられたもの とされている(例を多くあげている TRANS.Biz編集部チームのサイトより) 。 「されど」で始まるのだから、続く部分は、井戸の外の蛙ができないことでなけらばならない。とすると、上例のうち「地の深さを知る」だけである。 上記の例以外は、ネットで見つけることができなかった。私のパソコンのなかに、別の可能性を示す文章がある。速水御舟の娘であった故・速水彌生さんが、生前、三島カトリック教会報に書かれた短い文のなかで、次のように記されている。 日本には昔からいろいろと素晴らしい言い伝えがあり、それらは私たちの祈りの心を養い育ててくれるように思います。 その一つは、「 ※ 井の中の蛙 大海を知らず されど 天の星を見る」です。 2008年に 書かれたもので、 当時、教会報を編集していた方が次のような 脚注 ※ を 付けている。 深い井戸を掘り、その底に降り立つことができると、空の青さを知ることができる、空の青さの中に昼の星も見ることができるという意味があるそうです。実際、井戸掘り職人の話では、深い井戸の底からまっすぐ天を仰ぐと、太陽の散乱光の影響がなくなり、昼間でも星が見えることがあるそうです。 井戸の底からは日中でも星を見ることができるのだろうか。この点については、以下のサイトが参考になる。科学的な説明、実際見たことがある個人の記事、などなどが、列挙されている。 深い井戸の底だと昼間でも星が見える? -カテ違いでしたらすいません!- 宇宙科学・天文学・天気 | 教えて!goo  これが事実だとすると、井戸の底にいる蛙は、昼間にも星が見えることになる。 百歩譲って、そんなことができるはずがないとして、 考えることもできる。夜はどうだろうか。井戸の外の蛙も、中の蛙も、夜空の星が見えるだろう。しかし、違いがある。井戸の外の蛙には、広い夜空が見えるだろ

プレバト・ファンです

ここ数年、テレビでプレバトを毎週必ず見る。見落とすといけないので、毎回、録画予約をする。1時間番組であるが、それ全体に興味があるわけではない。番組の半分は必ず俳句。あと半分は、消しゴムはんこ、水彩画、スプレイアート、生け花など、週によって変わる。 私が興味があるのは俳句の部分である。 出されていたお題に対して、5,6人の芸能人や有名人が俳句を提出する。まず、MCの浜田が作者に、どういう気持で、何を言いたいのかをたずねる。それを聞いてから、夏井いつき先生が必要な添削をする。句が新しくなると、見ている私も、爽快さを感じる。言わんとすることが、パッキリ表現されている心地よさである。 何週間か前の番組で、お題が「宿題」であったとき、梅沢冨美男が次のような句を出した。  「白秋や 漢字ドリルに 書く名前」 この句について、梅沢は、次のように言った。「俳句をやりたいが、この年になって読めない漢字がいっぱいあった。それからお勉強をした。いろんなドリルを買った。小学生のドリル、中学生のドリル。自分のための宿題だった。『白秋』は自分の人生の秋にかけました。」 梅沢は70歳になる。幼いときから父の大衆劇団に出演し、中卒である。梅沢の話を聴いた夏井先生は、「俳句はさておき、オッチャン(=梅沢)の向学心に感銘を受けました。オッチャンの俳句に、小学生・中学生のファンが多いのもわかります」と言い、俳句については、「じいさんなら、じいさんらしく」とコメントした。季語「白秋」は、とてもいいが、小学生の詠んだ句とも取れる。そして、次のように添削した。  「漢字ドリルに 白秋の 我が名記す」 夏井先生の添削に文句を言うこともある梅沢であるが、これには納得のようすであった。見ている私も、スッキリ! 梅沢の向学心には、私も感銘を受けた。

きゅうり=黄瓜!

新聞にキュウリについての記事があった。キュウリの語源は黄瓜だとか。びっくり!!!キュウリが熟した状態では黄色いとかで、そこから来た言葉だそうである。キュウリはあのグリーン色しか知らない。黄色くなることも知らなかった。当たり前と思っていたことが、そうではないことにびっくりさせられる。 最近読んでいる時代小説から、言葉の由来に気づかせられることが多い。読んでいるのは、高田郁作「あきない世傳」で、関西に生まれ育った主人公の女性が、江戸時代の呉服界で成長する姿を描いている。次のような箇所に出会った。 「吉次、 お手塩 を持ってきなはれ」  声を張って奥の弟子に命じると、菊次郎は餅を順に素手でひっくり返す。あちち、と耳たぶで指先の熱を冷まして…(中略)  折しも、吉次がお盆に 手塩皿 とお茶を乗せて運んできた。 子どもの頃、祖母が小皿をオテショウと呼んでいたことを思い出した。どういう意味なのか、ずっと頭の隅にひっかかっていたが、この箇所を読んで、なるほど、と思った。 小さなガラス瓶入りの塩がなかった時代、塩を小皿にのせて膳の隅に置いたのではないだろうか。とすると、手元に置く塩=「お手塩」である。それが同時に皿を意味するようになったと思われる。「お手塩」→「手塩皿」→「オテショウ」なのだろう。 この本を読んでいると、やはり関西生まれ育ちの私が使っていた言葉の意味が、今になってわかる。「あぁ、そうなんだ」という感じである。 例えば、女性の使用人を「おなごしさん」と呼んでいた。小説では、「女衆」と記されている。「おなご(=おんな)+衆」に由来するのだろう。よく真似をする人をマネシと言ったけれど、「真似衆」であったらしい。卑しい性格の人を意味するゲスは、「下種」と表記されている。浴衣は「湯帷子(=ユカタビラ)」から来るらしい。 物語としても面白いけれど、言葉の発見も楽しんでいる。