投稿

7月, 2023の投稿を表示しています

認知症と成聖への道

「自分は認知症になりたくないという人は、心のどこかで認知症になっている人を蔑んでいる」。さいきん読んだ記事 注 に 、 ギクリとした。筆者はイエズス会士のための介護施設長をしておられる山内保憲神父である。 記事のあらましは、次のようだった。 ――健康寿命を延ばすということは寿命を延ばすことで、介護が必要な時間も長くなる。信仰がなければ、老いや死は、ただただ嫌なものかもしれない。しかし、イエスをキリストと信じる私たちにとっては、別のものになる。老いて認知症になる道は、イエスの道であるからだ。イエスも、人から見捨てられ、誰もなりたくない姿になった。  「自分を低くして、この子どものようになる人が天の国でいちばん偉いのだ」(マタ18:4)というイエスの言葉もある。認知症は本当に子どものようにしてくれる。なろうとするエゴの働きではなく、自然の摂理によって。  老いて、それまであった力が失われているときに、やっと私たちに本当の「成聖」への道が開かれる。―― なるほどなぁ、とは思うけれど、やっぱり認知症になりたくない自分がいる。 注  「介護の現場から」——成聖の完成の時である老いと死ーー(『聖性への道のり』越前喜六編著、教友社、2023年)

共時性の不思議

昨日21日はミサがなかったので、夕方に集会祭儀があった。祭儀には、ミサの会衆用冊子「毎日のミサ」を用いる。 朗読箇所の聖書本文や祈願などが、日付ごとに収録されている。祭儀の終わりになって、次の日の記事が目に入った。22日は、聖マリア(マグダラ)の祝日とある。 その日の朝、『マグダラのマリアによる福音書』を読んで学んだことをブログに記して、 アップしたばかりだった。 この本を修道院の図書室で手に取ったのは、深い興味があったわけでもなかった。 ふと手が伸びたからだった。 それなのに、夢中になって読み、ブログまでアップし、し終えたら、マグダラのマリアの祝日!!! 「毎日のミサ」は、祝日の説明を次のように記している。 ”キリストに従う人たちの一人で、キリストが十字架上で亡くなられたときにそばに立ち、三日目の朝早く、復活したイエスと最初に出会った(マルコ16・9)。マグダラのマリアへの崇拝は、特に十二世紀から西方教会に広まった。(『毎日の読書』より)” 「毎日のミサ」は、カトリック中央協議会によって発行されている。 マグダラのマリアが悔い改めた娼婦でないことは、現在、公認されているのだ。 一か月ほど前、『マグダラのマリアによる福音書』を手に取ったときから、マグダラのマリアの祝日に至るまで、 目に見えない何かに導かれていたような気がする。

存在する「マリア福音書」

修道院の図書室でふと手に取った本から、「マリア福音書」なるものが存在することを初めて知った。題名は『マグダラのマリアによる福音書』である(副題「イエスと最高の女性使途」山形孝夫・新免貢訳、河出書房新社、2006年。英文原書は2003年刊行)。著者はハーバード大学の神学部教授カレン・L・キングで、古代キリスト教史、コプト語を担当するとある。以下、この書から私が学んだことをまとめてみる。 19世紀後半以降、「マリア福音書」の3世紀初頭のギリシア語写本が2つ、5世紀のコプト語写本が1つ見つかっている。たいていの学者たちは、「マリア福音書」の成立年代を2世紀後半に定めてきた。キング自身は2世紀前半とする。内容が、使途継承、正典などが広く受け入れられる以前のものだからである。 初期キリスト教徒の作品であるという証拠はゆるぎない。これらの文書が今に残されたのは、ひとたびテクストが書き写され、それが使い古されると、それをまた書き写すという仕方で筆記され続けてきたからである。しかし、5世紀以降は再び筆写されることはなかった。 入手されたパピルス写本はわずか8頁足らずで、「マリア福音書」の最初の6頁は失われている。残された「マリア福音書」は復活後の物語で始まる。イエスに愛されるマリアという女性がいた。イエスの母ではない。イエスに愛されたのは、イエスの教えをよく理解するゆえにであった。弟子たちは宣教に出て行くことを恐れている。マリアは、幻に見たイエスから受けた教えを話し、弟子たちを慰め、励ます。それに対して、ペトロが、イエスがこのような高尚な教えを女性に授けるはずがないし、男の弟子たちよりマリアを好んだとは考えられないと言う。泣き出したマリアを弟子のレビがかばい、われわれはイエスに命じられたように宣教に出かけなければならない、と言う。物語はここで終わっている。 「マリア福音書」では、 1.イエスは 神を「善き 方」 と呼ぶ。「父」とは呼ばない。性別されていない。 2. 「人の子」 という呼称はイエスではなく、すべての人のうちにある真の自己を指す。   性差はない。 3. 指導性の根拠 は人の性別ではなく、霊的成熟度とされる。 現在、「マリア福音書」は正典新約聖書に対し外典とされ、顧みられることはほとんどない。しかし、「マリア福音書」が書かれたのは、新約聖書も成立していない時代であった。