存在する「マリア福音書」

修道院の図書室でふと手に取った本から、「マリア福音書」なるものが存在することを初めて知った。題名は『マグダラのマリアによる福音書』である(副題「イエスと最高の女性使途」山形孝夫・新免貢訳、河出書房新社、2006年。英文原書は2003年刊行)。著者はハーバード大学の神学部教授カレン・L・キングで、古代キリスト教史、コプト語を担当するとある。以下、この書から私が学んだことをまとめてみる。

19世紀後半以降、「マリア福音書」の3世紀初頭のギリシア語写本が2つ、5世紀のコプト語写本が1つ見つかっている。たいていの学者たちは、「マリア福音書」の成立年代を2世紀後半に定めてきた。キング自身は2世紀前半とする。内容が、使途継承、正典などが広く受け入れられる以前のものだからである。

初期キリスト教徒の作品であるという証拠はゆるぎない。これらの文書が今に残されたのは、ひとたびテクストが書き写され、それが使い古されると、それをまた書き写すという仕方で筆記され続けてきたからである。しかし、5世紀以降は再び筆写されることはなかった。

入手されたパピルス写本はわずか8頁足らずで、「マリア福音書」の最初の6頁は失われている。残された「マリア福音書」は復活後の物語で始まる。イエスに愛されるマリアという女性がいた。イエスの母ではない。イエスに愛されたのは、イエスの教えをよく理解するゆえにであった。弟子たちは宣教に出て行くことを恐れている。マリアは、幻に見たイエスから受けた教えを話し、弟子たちを慰め、励ます。それに対して、ペトロが、イエスがこのような高尚な教えを女性に授けるはずがないし、男の弟子たちよりマリアを好んだとは考えられないと言う。泣き出したマリアを弟子のレビがかばい、われわれはイエスに命じられたように宣教に出かけなければならない、と言う。物語はここで終わっている。

「マリア福音書」では、
1.イエスは神を「善き方」と呼ぶ。「父」とは呼ばない。性別されていない。
2.「人の子」という呼称はイエスではなく、すべての人のうちにある真の自己を指す。
  性差はない。
3.指導性の根拠は人の性別ではなく、霊的成熟度とされる。

現在、「マリア福音書」は正典新約聖書に対し外典とされ、顧みられることはほとんどない。しかし、「マリア福音書」が書かれたのは、新約聖書も成立していない時代であった。イエスは書き物を残していない。残っているのは、イエスを信じる人たちが彼について書いたものだけである。「マリア福音書」写本の存在は、ここに記される内容を信じるキリスト教徒のグループが、一つならず存在したことを証しする。

当時のキリスト教徒たちの世界は、さまざまな色合いの信仰が存在していたのであろう。しかし、組織化される過程で軋轢が生まれる。キングは、マリアが娼婦であった歴史的根拠はないとし、後世になって、悔い改めた娼婦に仕立てられる過程を追っている。

341頁の大著だったけれど、読み終えて、新しいイエスを発見したような感じがする。このイエスの方が好きだ。






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