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嬉しいお手紙

表紙に金色と銀色の羽が一枚ずつあしらわれた美しい封筒を受け取った。便せんも封筒と対になっていて、金色と銀色の羽の模様入りだった。 お便りには、次のようにあった。 ――マザー・ブリットのことを調べようとしていたら、ポンコ記というブログを見つけました。ポンコというのはシスターMのことだろうと思い、お手紙を書きたくなりました。ガーコがお友達と知って、カラスの模様の入った便箋と封筒を探したけれど、見つからないので、羽の模様入りになりました―― 差出人は、半世紀以上以前の教え子さん。「私のこと、覚えていらっしゃらないかもしれませんが」とあったが、私はよく覚えていた。この3月でお仕事を定年退職したこと、これまでの年月にあった山あり谷ありの出来事がつづられていた。 美しい封筒と便箋をわざわざ見つけて書いてくださったお手紙に、心がポカポカした。定年後の人生、どうぞ楽しんでください。

花束のプレゼント

きのう夕方、散歩に出かけた。いつもと同じ住宅街の裏道である。お店など一つもないこの通りに、一軒だけ花屋さんがある。2階建てのお店で、2階にはランの鉢とかバラなどの切り花が売っているらしい。花束を手に階段を下りてくる人を見かけたりする。 1階から2階にかけてを、うまくひな壇のようにしつらえ、花や植物が置いてある。小さな鉢からちょっとした高級なものもある。お店の前を通ると、花畑のような香りがする。散歩の途中、このお花畑の香りを楽しませてもらう。毎日のように通るから、お店のご主人と目礼を交わすこともある。 いつも夕方に散歩に行くのだが、お財布を持たないようにしている。500円前後で買えるものもあり、あれこれ欲しくなってしまうからである。一番誘惑になるのは、サービス・ブケ―のコーナーで、ちょっとした花束が550円で買える。 きのうも香りだけを楽しませてもらい、帰り道に着いた。するとすぐ前を歩いていた女の子が、クルリと振り返り、手に持っていた花束を私に差し出してきた。サービス・ブケ―にあったバラの花束が簡単な包装をされていた。金髪の巻き毛のその子は小学校高学年くらいか。「いいの?ありがとう」と言って受け取った。花束を手渡すと、その子は一言も話さず、回れ右をして、さっさと行ってしまった。 夕方だったけれど、朝からの一日がピカピカと輝くように感じた。バラはピンクというか桜の花びら色で、3本の枝に花とつぼみが10個ついていた。あの子はどんな気持で私にくれたのだろう。など考え始めたが、いやいや、喜んでいただくのが一番だろう、と自分に言い聞かせた。 今、バラたちは廊下の花瓶で満開である。

ガラケー騒ぎ

ガラケーの画面が真っ黒になった。いつものボタンを押しても、何も起こらない。近くのドコモショップに電話をして、予約を取り、介助の人に付き添ってもらって行った。ショップの人は携帯をチェックして、「電源ボタンがオフになっています」とのことだった。電源ボタンを押すと、即もとに戻った。 付き添ってくれた人も、少々あきれ顔。私のこと、大丈夫かなと思ったみたい。 帰ってきて、よくよく考えた。通常使っているケイタイの電源をオフにするには、電源ボタンを長押ししなくてはならない。私にはそれをした記憶がない。急にケイタイの画面が真っ暗になり、何も反応しないので、パニックになった。だいたい、スマホを使う勇気もない機械音痴だ。 それにしても、切ろうともしていない電源が、なぜオフになったのだろう。ネットで調べたら、「極熱」で電源自動オフとあった。 私の部屋は西向きで、午後は西日がさんさんと入る。窓辺のスチールデスクは温かくなる。ここのところ、夏日のような気温の日もあった。机の上に置いてあったケイタイが「極熱」の状態になったのではないか。 こう考えると、自分では納得がいく。機械音痴の自己弁護か。

ガーコと神さま

やっと復活祭の日だ。当日に先立つ数日の儀式は、大聖堂で行われた。少々の暖房で暖まらない大聖堂。冷えからまた腸閉塞にならないか、ハラハラしながらの日々だったので、無事復活祭を迎えられてほっとした。 朝食を終え自室に向かう廊下を歩いていると、ガアガアガアとにぎやかな声がする。窓の外を見ると、すぐ近くを8羽くらいのカラスがぐるぐると旋回している。ガーコの家族が増えたのだろうか。窓を開けて、私も「ガアガアガア」と返事をする。 ガーコが来てくれるたびに、嬉しくなる。何をしてあげるわけでもないのに、私を慕ってくれている。商店街を歩いていると、急に近くのビルの上から、ガアガアガアと鳴く声が聞こえる。ガーコが来てくれるたび、私は神さまのことを思いだす。私がすっかり忘れているときも私を見ていてくださる方。ガーコはその方を思い出させてくれる。 ガーコ一は、私が裾野で知り合った一族だと思っている。私の知人たちは、「裾野から東京まで来るはずがないでしょう」と言う。でもカラスの飛ぶ速度は、時速100キロとか200キロとか。そうだとすれば、裾野から東京まで1時間余りで来られるのではないか。 いい友達がいるしあわせを、しみじみ味わわせてもらっている。

背中を押す神

遠藤周作の『落第坊主の履歴書』は、3-4頁の短文を集めた作品である。幼い頃のいたずらや悪童ぶりに、クスッと笑わせられながら読んでいた。本の半ば頃になって、突如「神の働き」というタイトルになり、びっくり。これも遠藤さんならでは、か。 かいつまむと内容は以下のようである。 神というのを二とおりに考えたいのです……。後ろのほうからいろんな人を通して、目に見えない力で私の人生を押して行って、今日この私があるのだということで分かったきたのです。後ろから背中を押しているのが神なのです……。そのように後ろから押しているものと私を存立させる場というものの二つがあって、それを考えかみしめていると、やっぱり神が働いているなという感じが私にはするのです……。 人生を歩むについてはたくさんの選択が可能であったのに、結局ここに来たわけで、これを私は選んでいるところを見ると、意思のほかに、他のものを選ばせない無意識のものあったのではないでしょうか。本能的にこっちのほうがいいなと思って選んでいるのであっても、本能的に選んだというのは何か理由があるわけで、理由を作ってくれたのはその場だと思うから、どうしても場とのつながりということを考えるようになりました。それを働きと言うのですが、私は働きを認めざるを得ないのです。 「背中を押してくれる神」というのは、すんなりと心に入ってくる。自分で選んできた人生と思っていたが、神が後ろから押してくださっていたというほうが、実感がある。

海軍さんの父

数々の重責を担ってきた人だけれど、現在、今日の日付がわからない人がいる。この人が繰り返し話す想い出がある。 「父は海軍さんだった。船に乗っているので、めったに家に帰ってくることがない。たまに帰ってくる日には、私と弟は門の前で待っていて、父の姿が見えると走って行き、父の片手に私、もう一方の手に弟がぶら下がって家に帰ってくるのよ」 お父さんはまもなく戦死。お母さんは早くに病死していて、その後、残されたおばあさんが二人の子ども達の世話をされたらしい。生活も大変だっただろう。幼い頃の幸せな思い出があって、よかったね、と思う一方、どう考えても戦争は残酷だ。 被爆者手帳をもつシスターは、「私たちは身寄りが一人もいないからね、仲がいいの」と言いながら、このシスターをあれこれと手助けする。

誕生以前に洗礼?

長崎生まれの97歳のシスターの戸籍には、昭和2年1月7日誕生とある。昔は年齢を数え年で数えた。生まれたときが1歳、お正月が来るごとに1歳を足す。12月生まれは満では0歳でも、数え年だとお正月が来れば2歳になる。親はそれを避けるため、誕生をお役所に届ける際に、1月初めにしたのだろう。 この人の受洗証明書には、大正15年12月27日とある。洗礼証明書は、洗礼を受けると記録される教会の台帳にもとづいて作られる。生まれてすぐの赤ちゃんを真冬に洗礼のため教会に連れていかないだろう。誕生は12月27日以前だったと思われる。大正15年12月25日には大正天皇が崩じ、同日に昭和元年が始まる。この人の誕生は、おそらく大正年代だったのではないか。 このシスターの誕生は、戸籍上では昭和2年1月7日である。書類上、この人は誕生以前に洗礼を受けたことになっている。

渋谷区でただ一人

12月8日は、カトリック教会では無原罪の聖マリアの祝日である。1941年(昭和16)、長崎出身の若い女性が修道会に入会した。修道院にたどり着いて、その日に戦争が始まったことを知った。 1945年8月9日、長崎に原爆が投下された。3ヵ月後、このシスターは長崎に行く。おじいさんが庄屋で、梨・ブドウ・みかん・イチジクなどなど果物の木が茂っていた広い土地は焼け野原。両親、姉、妹も見つからない。人づてに見つけたバラックに泊まり、なにか食べるものをと思い、庭にあったカボチャを取ってきて料理して食べた。すぐに、吐く、下痢をする、赤いブツブツが皮膚にでた。放射能汚染された物質を体内に取り込んだためと診断される。 最初左脚を切開して、骨の腐敗している部分を削った。その治療に1ヵ月。右脚は慣れていない医師が手術をしたため、治癒するのに1年かかったそうである。被爆者手帳をもつのは、渋谷区でこの人ただ一人とのこと。 このシスターは食事の度、キャスターを押して食事の終わった人たちのお皿を集め、洗い場に運ぶ。今日も洗い場の人に「よく働きますね」と言われていた。御年、97歳。

共時性?

建国記念日の代休の12日、トランペットとピアノのミニ・コンサートがあった。トランペット奏者もピアニストも、30歳になるかならないかの若い方たちだった。曲目は主に、昔の童謡だった。自分たちにとっては、子どものころに聞いたかもしれない曲で、うろ覚えだけれど、いい音楽だと思うので、とトランペットの人が語りを入れながら演奏してくれた。「母さんが夜なべをして」「垣根の垣根の曲がり角」「春は名のみの」などなど。私たちもそれに合わせて歌った。トランペットの音がドでかいから、私たちも負けじと大声を張り上げた。 「親の愛情を表現するいい歌ですね」と言って、「カラスなぜ鳴くの」も演奏した。カラス・フアンの私は大満足だった。 30分位でコンサートは終了。そのあと、私は散歩に出た。いつもの散歩道を歩いていると、目の前を5羽のカラスが横切った。時折見かけるときは、多くて3羽なのに。家族が増えたのかしら。

まど・みちおさんの詩

「気がつくことがある」というタイトルのまど・みちおさんの詩に出会った。      あることを思いだしていて      あ あの時… と気がつくことがある      ―雪がちらちらふっていた…      ー暑い日だった 蝉 せみ が ないてて… などと      関わっていたその時のその事を私 わたし ごと      抱 だ きかかえていて下さった天の      大きなさりげないやさしさに…      ああしていつだって天は      立ち会っていて下さったし下さるのだ      生きて関わるかぎりの      この世のすべての生き物の      どんなときどんな所でのどんな小さな      「私事 わたくしごと 」をでも 天ご自身の      かけがえない「我 わ が事」として 聖書の言葉もいいけれど、信仰を受肉されている日本人の日本語で書かれているものを読むと、すんなりと心に入ってくる。八木重吉や星野富弘さんの詩でも、同じように感じる。 (小さな字は、本文ではルビです。)

自分の名前

菫という名前の人が、「子どものころは自分の名前が大嫌いだった」と言った。「お名前は?」と尋ねられて、「キン」と答えると、必ず「え?」と聞き返される。漢字「菫」を「キン」と読ませたのは、哲学者だったお父さんである。「キン」と決めるには、それなりの理由があったのだろう。「 子どもの名前を考えるとき…人は詩人になる」と、どこかで読んだか聞いたかした。親は生まれる子どもの幸せを祈りながら名前を選ぶのだろう。子どもにはそんなことがわからないけれど。キンさんも、「子どものころは」と言っていたから、今は違うのかもしれない。 私が幼稚園に行っているころ、通園手帳とでもいうようなものをもって通っていた。幼稚園に行くと、花や動物のシールを一つ貼ってもらう。その手帳に私の名前が「サナヘ」と書いてあった。私の名前は「サナエ」なのに、「ヘ」などは嫌だと母に言って、幼稚園までいっしょに来てもらい、先生に話してもらった。先生によると、「苗」は「なへ」と読むので、「さなへ」ですと言われ、ガッカリ。現代仮名遣いになったのは、戦後、私が小学4年生の時である。そのときまで「さなへ」だったのかもしれない。幼稚園後のことは、覚えていない。  

遠赤外線の腹巻き

「着る岩盤浴」などと新聞で時々見かける広告があった。遠赤外線の効果で寒さを感じない、一晩トイレに起きることがない、など書かれていたが、どうせ誇大広告だろうと思っていた。半月ほど前、同じ広告を新聞で見た。サービス期間中の購入なら、送料無料、支払手数料無料とある。それでも腹巻き(正式商品名はウエスト・ウオーマー!)は大枚¥4,400。 だけれど、買ってみようと思った。というのも、私は元日に腸閉塞になり、夜、救急車で病院に運ばれた。3度目の腸閉塞である。前回は9年前で、1ヵ月ほど入院していた。今回入院手続きの用紙に、1週間予定と書かれていて、「嘘でしょう」と思ったけれど、予定通り9日に退院した。鼻から腸まで管を通し、中に詰まっているものを取り出す。前回は、自然に出てくるのを待つため、それに1週間かかった。今回は、鼻の管は器械につながれていて、40秒吸引、20秒休止を終日繰り返すため、2日ほどで完了。医療の進歩を感じさせられた。 前回も今回も、冷えが引き金だった。気を付けているつもりだったけれど、年末の行事で避けられない場面もあった。それもあって、ウエスト・ウオーマーを試してみよう、となった。 これまでも木綿の腹巻きを夏でも着けていたけれど、今回の腹巻は遠赤外線を発する鉱石の微粒子が繊維に織り込まれているとか。届いた品をすぐに身に着けた。木綿のものより、ずっと薄手だけれど、ほんわかと温かい。夜中に一度は起きるけれど、たしかに温かい。今は、洗濯用の着替えがいるかしら、と迷っている。