認知症と成聖への道
「自分は認知症になりたくないという人は、心のどこかで認知症になっている人を蔑んでいる」。さいきん読んだ記事注に、ギクリとした。筆者はイエズス会士のための介護施設長をしておられる山内保憲神父である。
記事のあらましは、次のようだった。
――健康寿命を延ばすということは寿命を延ばすことで、介護が必要な時間も長くなる。信仰がなければ、老いや死は、ただただ嫌なものかもしれない。しかし、イエスをキリストと信じる私たちにとっては、別のものになる。老いて認知症になる道は、イエスの道であるからだ。イエスも、人から見捨てられ、誰もなりたくない姿になった。
「自分を低くして、この子どものようになる人が天の国でいちばん偉いのだ」(マタ18:4)というイエスの言葉もある。認知症は本当に子どものようにしてくれる。なろうとするエゴの働きではなく、自然の摂理によって。
老いて、それまであった力が失われているときに、やっと私たちに本当の「成聖」への道が開かれる。――
なるほどなぁ、とは思うけれど、やっぱり認知症になりたくない自分がいる。
注 「介護の現場から」——成聖の完成の時である老いと死ーー(『聖性への道のり』越前喜六編著、教友社、2023年)