浩宮誕生祝うメタセコイア
浩宮誕生祝うメタセコイア
びっくりした。これまでずっと、メタセコイアは洋風の名前だけれど、ありふれた植物とばかり思っていた。
私が初めてメタセコイアに出会ったのは半世紀以上も前、1960(昭35)年であった。当時私は聖心女子大学学長の秘書をしていた。宮内庁から連絡があり、浩宮誕生の記念に、聖心女子大学にメタセコイアの苗木を贈りたいとのこと。日付は忘れたが、浩宮誕生の年であったから、年度に間違いはない。宮内庁の2,3人の方が持ってこられたな苗木6本は、大学の職員によって構内の敷地に植えられた。受取った学長はメタセコイアのヒストリーなどを知っていたのだろうか。私自身は露知らず、「生きている化石」と呼ばれたりする植物であることなど、思いも及ばなかった。
大学の職員たちも私と同様であっただろうと思う。というのは、しばらくして、植えた場所で6本の木が大きくなるのは困るから、と3本を処分してしまっていた。
1年後、再度、宮内庁から2,3人の方が来られ、メタセコイアの成長を確かめたいとのことであった。6本だったのではないですか、との質問に、「場所が狭いので、3本は処分したようです」という私の言葉に、事務長があわてて、「場所が悪いので、別のところに植え替えたのですが、育ちませんでした」と答えた。「処分した」などと軽々しく私が答えたのは、松や杉のようにどこにでもある植物としか思っていなかったからだ。
新聞記事を読んで、「メタセコイア様、お見それしました」という感じがする。
でも、疑問が生じた。聖心大に寄贈されたのは、米国の専門家が日本に贈った100本の苗木の一部だったのだろうか。そもそも100本の苗は、いつ、誰に宛てて贈られたのか。あれこれ調べ始め、『メタセコイア――昭和天皇の愛した木』(斎藤清明著、中公新書、1995年)という本にたどりついた。同書によると、
米国の専門家とはラルフ・チェイニー博士で、現地の種子の第一号を生物学者の昭和天皇に献上したいと考え、1949年(昭24)、二年生の苗木一本と種子500粒を献上した。すでに三木と手紙のやり取りがあったチェイニーは、三木によって結成されたメタセコイア保存会宛に、1950年(昭25)、100本の苗木を送った。
昭和天皇がご出席になった最後の歌会始は1987(昭62)年で、お題は「木」であった。
「わが国のたちなほり来し年々にあけぼのすぎの木はのびにけり」
陛下の詠まれたお歌である。「あけぼのすぎ」という和名は、メタセコイアが米国の新聞記事などで dawn redwood と報じられたことに由来する。太古から生きのび、成長が早いメタセコイアの生命力に、戦後日本の復興を重ねてことほがれている。
『皇居の植物』(生物学御研究所編、1989)の序文は、昭和天皇みずから記されている。「寄贈者の好意に応えるためにも、草木についての思い出をいささか述べてみたいと思う」とあって、まずアケボノスギについて、「米国と中国と日本とを結ぶ協力が調査によい結果をもたらしたといえることは誠に喜ばしい」とある。戦争で争った3か国の友好のシンボルでもあったのだろう。
斎藤氏の書からこれらを知って、恥ずかしくなった。あらためてメタセコイアについて振り返ると、思い込みにも気づいた。今まで私はメタセコイアは美智子妃のご配慮で聖心大に贈られたとばかり思っていた。妃殿下からであれば、東宮御所からのはずである。しかし、苗木を持ってこられたのは宮内庁の方々であった。皇居で種から育てられた苗であった。
今さらに、苗木を聖心大に届けられた昭和天皇の思いにふれる気がした。初孫誕生を喜び祝い、美智子妃をねぎらおうとのご配慮だったのだろう。
このことを、今上天皇はご存じだろうか。お尋ねしたい気がする。