人生の到達点
小堀鷗一郎先生がにお書きになった「人それぞれの老いと死」(「 一冊の本」2021年4月号)という記事を読んだ。先生は40年の外科医としての活躍ののち、訪問診療医に転じて15年になられる。お仕事ぶりはテレビなどでもたびたび放映された。
二つの事例が印象的だった。
事例1 76歳の男性。妻と二人暮らし。胃がん末期で、食事もほとんどとれない。病院を退院して自宅に戻った。その理由は好きな酒が自由に飲みたいため。小堀医師は、酒は好きなだけ飲んでよいと許可。翌日から彼の枕元にはウイスキーボトルが置かれ、ボトルの口には飲み口に接続したチューブが取り付けれた。彼は好きな時にボトルの中身を飲むことができる。食欲も一時的に旺盛となった。最後が近くなった頃、小堀医師はもらっていた高級ウイスキーをもちこみ、乾杯をした。
事例2 72歳男性。身寄りは全くなく、生活保護受給の独居。脳出血による右半身まひで入院していたが、歩行訓練もほとんど行わず、担当医の許可なく退院。極端なヘビースモーカーで、退院を強行した理由は喫煙を自由に行うためであった。自室から300m離れたたばこ自販機までの自力歩行を目的としたリハビリを開始。往復600mの戸外歩行が可能となるまでに一年間を要した。自力で往復できるようになった初夏、自販機への道で死亡していたことを、警察から知らされた。
簡略に引用させていただいたので、原文の魅力を半減させているだろう失礼をお詫びする。
飲酒や喫煙など、はた目にはとるに足らない事柄に見えても、当人にとっては生死をかけた「生活の望み」の実現である。いずれもが当人にとってはかけがえのない「人生の到達点」と言える、と小堀先生は結ばれていた。
人それぞれの到達点を尊重できるだろうか、私自身はどのような到達点を望んでいるのだろうか。考えさせられた記事であった。