人間の本性的祈り
遠藤徹先生がお書きになった次のような文章が、心に残った。
神様と呼びかけるかどうかは別として、「助けて!」という心の叫びを、誰に向かって発しているのか分からずに、発しているということは間違いなくあるのではないか。発しようと「意志する」ことなどなしに、思わず、つまり「自然に」、「自ら」、発しているのではないか。
この「自然(nature)」には紛れもなく人間の自然本性(nature)が、人間という存在の根本的な成り立ちが、無為の内に、無垢のままの状態で、露呈しているのではないか。神とは本来そういう場面で初めて、根源的に、本源的に、出会うものではないか。
神が先に存在していて、その神に向かって助けを求めるのではない。誰に向かって発しているのかわからずに「助けて!」と思わず叫んでいる――その先にあるもの、その叫びが向かっている何か、究極的な、絶対的な何か、それが「神」なのである。(太字原文ママ)注1
「よかった」というのが、この文章を読んで、私の最初の反応だった。神はいつでもそこに存在している。人はそれを本性的に知っている。いずれかの宗教的信仰と関係なく。すべての人が、一人残らず、助けを必要とするときには、叫びをあげる相手がいる。自然本性的に神とつながっている。犯罪者であろうと、無神論者であろうと、である。本人は「神など」と言うとしても、私は「よかった」と思う。
次に思ったのは、祈りは私が考えるより単純なのではないかということだった。思わず「助けて!」と叫ぶときに、神と根源的に出会う。心の思いをそのまま神に向かって言うことにより神と出会う。とすると「祈り」は、七面倒くさいものではない。誰にも話せないわだかまりを心に抱えることがある。思いがモヤモヤして、言葉にできないこともある。それをそのまま神に話すこと=「祈り」なのであろう。
注1 「聖書の神観は現代の科学的世界観と、果たして、また、どのように、折り合うか」『宗教と文化 37号』、聖心女子大学キリスト教文化研究所、2021年。