種まきのたとえ話
種まく人のたとえ話が聖書に記されている(マタイ13以下)。種をまいた人の種が、道端や石地や、いばらの中に落ちた。それらは育たなかった。しかし、よい土地に落ちた種は百倍の実を結んだ、というたとえ話である。
この話を聞いた6歳のふうこちゃんが、神様に書いた手紙に、こんな風に記したという記事を読んだ。(『福音宣教』2021年6月号)
きょうかいで たねまきの おはなしを きいたの。
たねが むだに ならないように
かみさまの おはなしを
よく ききましょうって いったけど、
ふうこは あの たねたちは
むだにならないって おもう。
だって みちに おちた たねは とりさんが たべたし、
いしのうえや いばらのなかにおちた たねは
めをだして ひょろひょろでも
むしさんが たべたと おもうよ。
だから だいじょうぶ。
たねは むだになんか ならない。
(横田幸子編著「かみさまおてがみよんでね」コイノニア社)
聖書学的には、たとえ話は寓話と異なるという説明を聞いたことがある。寓話は、話のそれぞれの部分が何かにたとえられているのに対し、たとえ話は全体として一つのメッセージをもつ。種まきのたとえでは、種が大きな実を結んだというのが、本来のメッセージであった。
聖書の種まきのたとえを聞くと、私たちは「自分はどこに落ちた種だろうか」と心配になる。でも、イエスは私たちが自分や他人をとがめるためにこの話をしたのではないだろう。神のまく種はかならず実をむすぶ、と伝えようとしたのだろう。
ふうこちゃんは、イエスの思いをしっかりとつかんでいる。