カメと神さま

数年前、8日間の黙想のため、琵琶湖畔にある祈りの家に行った。残念なことに、今はもう閉鎖されてしまったが、建物1階の一番奥が食堂で、湖水に面していた。全面がガラスの引き戸になっていて、そこを開けると、ちょっとした石畳、5メートルほどの白い砂地、そこに琵琶湖のさざ波がよせていた。

1日目の朝早く、ちょっと外に出ようとした。玄関は食堂の反対側にある。玄関のドアを開けると、ドア・マットの上に小さな、小さなカメがいた。3センチほど。踏みつぶされるといけないと思い、つまんで、傍らの茂みのなかに置いた。笑われるだろうけれど、そのカメを見たとき、神さまが待っていてくださったような気がした。

私は長い間、古代日本人の信仰の形を知りたくて、あれこれ調べてきた。古事記や日本書紀は、政治的な意図で編纂された文献だと考えるようになり、それ以前の信仰の形はどのようだったのか、追いかけずにいられなかった。そして見つけたのが、古事記や日本書紀以前に書かれたことが立証できる丹後国風土記に書かれた浦島伝説を見つけた(詳しくは拙著『浦島伝説に見る古代日本人の信仰』)。

丹後国風土記によれば、カメは神の取る一つの姿とされていた。古代、そのように信じる一大豪族が存在した。カメを見て神さまが待っていてくださったと思ったりするのは、浦島伝説にズブズブにはまっていた私の自然の反応だっただろう。

朝、二階の窓から庭を眺めながら、歯を磨いていた。指導司祭が前日の講話で、「歯を磨くのも顔を洗うのも、奉献生活の一部」と言われたことを思い出しながら。すると、カメが庭を横切るのが見えた。二階から見えるくらいだから、初日のカメより大きかった。20センチ以上はあっただろう。アレッ、神さまが私のなかで大きくなったのかな、と思った。

最後の日の夕食、皆、沈黙で食事をしていたが、一人のシスターが「カメが泳いでいる」と、大声で湖を指さして言った。見ると、何匹ものカメが頭だけ水の上に出して、こちらの方に向かって浮かんでいた。さようならを言いに来てくれたのだろう、と思った。

翌日の朝、もうカメともお別れだと、少し淋しく感じながら黙想の家を出た。

京都駅から新幹線に乗った。指定席は車両の一番前の席だった。座って目を上げたら、目の前の壁にポスターが貼ってあった。中央に左向きのカメの写真だけが車のように大きくのせられ、キャプションに「エコはゆっくり」、会社名はYAZAKIとあった。「ああ、そうですか。いっしょに旅行をしてくださるのですね」と思った。

家に帰りついて、吹き出した。私の身のまわりはカメ・グッズであふれている。風呂場にはカメのスポンジ、携帯ストラップはカメ、冷蔵庫にはカメのマグネット。机の上には、小さなカメ・グッズをどっさり乗せた皿がおいてある。友人がくれたり、私が旅行先で買い求めたものである。

カメに助けられて神さまを身近に感じた黙想会だった。あちこちでカメと意味のある出会があった。あれは、単なる偶然だったのだろうか。もしかすると、毎日の生活でふつうにあるつながりなのに、気づかないで生きているのかもしれない。少し心を落ち着けると、そのつながりに気づかせられるのかしら。







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