原爆の記憶
終活で、書類などを整理していたら、長い手紙が出てきた。A4の用紙5枚の各ページに48行、小さな文字がぎっしり詰まっている。多分手書きであった英文を、日本人が訳したものである。手紙を書いた人はカナダ人のシスター(修道女)で、日付は1945年9月12日。
1935年に来日していた彼女は、1942年9月、宝塚市小林の修道院から神戸の強制収容所に送られた。帰国を拒否した”敵性国家”の国籍を持つ人たちを、日本政府は強制収容したのである。1944年7月、そこからさらに長崎へと送られた。総勢40人のうち、聖心会会員が16名、ヌヴェール会が1名、ショファイユの幼きイエズス会が7名、他信徒たちであった。
収容所は元神学校の建物で、長崎市街からは丘で隔てられていた。手紙の1-3頁は、抑留生活について書かれている。敗戦になって修道院に戻る前に、シスター達は収容所で体験したことを口外しないと、互いに約束したとのことである。そのため記録は何も残っていない。その約束以前に書かれたこの手紙は、貴重な資料である。
敗戦後、収容されていた人々は解放される。シスターが家族にあてて9月12日に書いた手紙は、収容所の仲間で、帰国が決まった人に託された。2008年、シスターの甥御さんが、お墓参りのため来日された。その折にこの手紙を持ってこられた。それを日本人のシスターが訳したものが、今、私の手元にある。
4-5頁は、原子爆弾が長崎に投下された8月9日、収容所での体験である。中心部分をかいつまんで引用する。
11時に私が刈った草の大きな袋を背負って丘を下りて行ったとき、丁度頭の上を姿は見えなかったけれど、重い爆音で飛行機がゆっくり飛んでいるようでした。(中略)急いでキャンプへ帰るほうが得策だと考え、走り出しました。数歩行くか行かないうちに、恐ろしい爆発があり、あたり一面が黄金色になりました。あたかも太陽が炸裂したかのようで、私はその中で茫然としましたが、次の瞬間近くの竹林に飛び込みました。私は背負っていた刈草の袋の上に横たわり、顔だけが熱さを感じていました。金色の光は数分しか続きませんでしたが、他の飛行機が来るのではないかと思い、刈草の袋で頭と背中を覆いました。何事も続いて起らなかったので、急いでキャンプに帰ってみると、宿舎は大きな被害を受けていました。ある人たちは重症ではありませんでしたが、頭や首や腕が傷つき、眼鏡をかけている人たちは、目の周りが傷ついていましたが、目自体がやられた人は一人もいませんでした。奇跡的だったのは、家の中の多くの引き戸はほとんど全体がガラス製なのに、誰一人として視力を失わなかったことです。廊下の両側にある部屋はただガラスのドアだけでなく、室内を明るいするために、廊下との境はすべてガラス窓でした。このガラス製の窓とドアがすべて壊れ、狭い廊下に山積していました。窓枠や上部の回転窓は地面に吹き飛ばされ、煙突はかなり離れたところで粉々になっていました。(中略)
数日間、山々は何マイルも燃え続けていました。長崎の3分の2の人口が亡くなりました。私たちは丘によって長崎から隔離されているため、市街の様子は見ていません。ここは市のはずれですが、市自体は廃墟の塊です。死体が今も焼かれ、誰も市街であった所を通ることは許されていません。2階からは遠くの方で、建物が燃えているのが見えました。2マイルほど離れたところにある浦上の美しい「殉教者の教会」が炎に包まれるのを見つめていましたが、今はもうほとんど何も残っていません。
手紙を読み返して、日本にとどまり、戦争の悲劇を日本人とともにしてくださったミッショナリーの方々、その方々を送ってくださった諸外国に対して、感謝の思いを新たにした。
今年も8月9日が巡ってきた。無数の原爆被害者、亡くなった方々、今も苦しんでいらっしゃる方々のため、祈りをささげることしかできない。そして戦争が二度と起こらないよう、ささやかでも自分に何かできることがないか。そんな願いから、このブログを書いた。