井上洋治神父の思い出

井上洋治神父について若松英輔氏が書いておられる文章に出会った(『悲しみの秘儀』文春文庫)。

学生時代の終り頃ノイローゼになられた時のこと。若者と新約聖書を読む会を設けておられた井上神父に、彼は出口を失ってどうにもならない心情を吐露した。聖書のどこを読んでも光を見つけられない。そればかりか自分が救われないことだけがはっきりしてくる。そう語り、矛盾したことが述べられている箇所を挙げ、数十分にわたって一人で話し続けた。それに対して、神父 が次のように言ったとのことである。

「今日は、とてもすばらしい話を聞かせてもらいました。ありがとうございます。しかし、ひとつだけ感じたことがある。信仰とは頭で考えることではなく、生きてみることではないだろうか。知ることではなく、歩いてみることではないだろうか。」

「この一言が私を変えた。その日からゆっくりと病は癒え始め、しばらくして、文章を書くようになった」と書かれている。

この場面を想像してみた。数十分にわたって話し続ける若松青年の話を、神父はただ聞き流しておられたのではなかっただろう。全身を傾けて、彼の言葉を受け止めておられたに違いない。だからこそ、青年は数十分も続けて、すべてをさらけ出して、語ることができたのだろう。「今日は、とてもすばらしい話を聞かせてもらいました。ありがとうございます」という神父の言葉は、文字通りの、心からの言葉だっただろう。

この締めの言葉ののち、若松青年は新しく歩み始めたとのこと。よかったな、と思う一方、青年を癒したのは、井上神父の言葉だったのだろうか、という疑問が残った。言葉もあるだろうけれど、それに先立つ、井上神父の聴く力にあったのではないかと思われる。

こんなことを思うのは、私が若いころ、似たような体験をしたからかもしれない。終生誓願を立ててからのことだった。修道院の台所の給水機のそばで、私より若くて、まだ誓願も立てていないシスター(修道女)に向かって、くだくだと愚痴をこぼしていた。長く話していたように思う。話し終わった時、その人は、「シスター、おつらかったでしょう」と言ってくれた。その途端、私は壊れたレコードのように、この話を何十回も話してきたことに気づいた。そして、もう二度と繰り返す必要がないだろう、とも。

たぶん、聴く力には、癒す力があるのだろう。








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