「ひとつの火」

新美南吉に「ひとつの火」という作品がある。

 わたしが子供だったじぶん、わたしの家は、山のふもとの小さな村にありました。 
 わたしの家では、ちょうちんやろうそくを売っておりました。
 ある晩のこと、ひとりのうしかいが、わたしの家でちょうちんとろうそくを買いました。
 「ぼうや、すまないが、ろうそくに火をともしてくれ。」
と、うしかいがわたしにいいました。
 わたしはまだマッチをすったことがありませんでした。
 そこで、おっかなびっくり、マッチの棒の端の方をもってすりました。すると、棒のさきに青い火がともりました。
 わたしはその火をろうそくにうつしてやりました。
 「や、ありがとう。」
といって、うしかいは、火のともったちょうちんを牛のよこはらのところにつるして、いってしまいました。
 わたしはひとりになってから考えました。
 ――わたしのともしてやった火はどこまでゆくだろう。
 あのうしかいは山の向こうの人だから、あの火も山を越えてゆくだろう。
 山の中で、あのうしかいは、べつの村にゆくもう一人の旅人にゆくあうかも知れない。
 するとその旅人は、
 「すみませんが、その火をちょっとかしてください。」
といって、うしかいの火をかりて、じぶんのちょうちんにうつすだろう。
 そしてこの旅人は、よっぴて山道をあるいてゆくだろう。
 すると、この旅人は、たいこやかねをもったおおぜいのひとびとにあうかもしれない。
 その人たちは、
 「わたしたちの村のひとりの子供が、狐にばかされて村にかえってきません。それでわたしたちはさがしているのです。すみませんが、ちっとちょうちんに火をかしてください。」
といって、旅人から火をかり、みんなのちょうちんにつけるだろう。長いちょうちんやまるいちょうちんにつけるだろう。
 そしてこの人たちは、かねやたいこをならして、やまやたにをさがしてゆくだろう。

 わたしはいまでも、そのときわたしがうしかいのちょうちんにともしてやった火が、つぎからつぎへうつされて、どこかにともっているのではないか、とおもいます。

以上が全文である。この作品を読むと、なんだか嬉しくなってくる。もしかしたら、私も小さな火をともすことができるかもしれない、その火が次から次へとうつされることがあるかもしれない、と思わせられる。


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