失敗の聖人フィリピン・デュシェーン
30年ほど前になる。ボストンのユング研究所で1年間研修させてもらった。講座を取ったり、分析を受けたりしていた。祈りの旅をする方たちのお手伝いをしたりしていたので、人を理解する助けになるための研修と思っていたが、どっぷり自分のことを扱うことになった。
1年の終り頃になって大きな気づきがあった。私が心の底から「書きたい」と願っていることだった。すでに50歳代の終り近くになって、私は父への反発からその欲求をずっと押し殺していたことに気づいた。
私がまだ4、5歳の頃だったと思う。手火鉢をはさんで、私は父と向き合って座っていた。手に本をもっていた私に、父が声を出して読むように言った。なぜか嫌で、私が読まないでいると、なんども「読め」という。それでも読まなかった私の頭を、父がゴツンと叩いた。私の口がちょうど火鉢のふちにぶつかり、唇が切れて、血が流れだした。父はそれでも「読め」と執拗に言い、私は泣く泣く読んだ。母がとんできて、「もういいじゃありませんか」と言った。
その出来事以来だろう、私は父に「NO」と言い切る強さをもたなくては、と思うようになったらしい。父は私がもの書きになることを願っていた。はっきりとは言わなかったが、感じ取ることができた。父自身、作家になることを望んだが、果たせなかった。若いころ、ロシア文学を学んだ結果、憲兵に疑われ、引っ張られたことがあったらしい。同僚が指を叩き潰されたと話していたことがある。
ずーーっと父に対して、「自分の夢を私におっかぶせないでよ!」と思っていたことに気づいた。その途端に、「書きたい」という気持が湧きあがってきた。なにが書きたいのかもわからない。でも書きたいと願っている自分がいた。60歳になろうとしていた。研修の目的とも外れていた。書くとしても、何を書くのだろう。支離滅裂の自分に思えた。
ちょうどその頃、私と同じ修道会の会員で、ローマの本部で働いている日本人のシスターが、アメリカ訪問で来ていた。その人と話し合うことができた。
「私たちの先輩に、聖フィリッピン・デュシェーンがいるでしょう。あの人の人生は失敗続きだったでしょう。でも、私はあの人を尊敬している。」彼女の答だった。
聖フィリッピンは、フランス革命後のフランスで、私たちの修道会の創立にかかわった人である。若いころから、アメリカでインディアンの人たちのため働くことを希望していた。アメリカに渡り、インディアンたちのところにたどり着いたときには、高齢でもあり、言葉を学ぶこともできず、働くこともかなわなかった。でも、インディアンの人たちは彼女を「いつも祈る人」と呼んで尊敬した、と聞いていた。シスターの返事を聞いて、心を決めることができた。成功できるかどうかが問題ではないのだ。
助けられて、心の深いところからの願いに従う決心ができたことを、今もありがたく思う。今でも私にとって書くことは楽しい。書いていると、なんだか元気が出てくる。私に与えられた 賜物だった。