カラスの子ども リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ 7月 10, 2022 きのう、ミサに行くため、聖堂のある建物に向かって歩いていると、「カア、カア」と鳴き声がした。見ると2羽のカラスが屋根の上にいた。1羽は大きく、もう1羽は小さい。大きい方が、くちばしで小さいカラスの毛づくろいをしてやっている。ここしばらく鳴きかけてくるカラスを見かけなかった。その間に、ひなが生まれ飛べるようになったのだろうか。もしかして、子どもを見せに来てくれたのではないか。などと、独りよがりで嬉しくなっている。 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ
共時性の不思議 7月 23, 2023 昨日21日はミサがなかったので、夕方に集会祭儀があった。祭儀には、ミサの会衆用冊子「毎日のミサ」を用いる。 朗読箇所の聖書本文や祈願などが、日付ごとに収録されている。祭儀の終わりになって、次の日の記事が目に入った。22日は、聖マリア(マグダラ)の祝日とある。 その日の朝、『マグダラのマリアによる福音書』を読んで学んだことをブログに記して、 アップしたばかりだった。 この本を修道院の図書室で手に取ったのは、深い興味があったわけでもなかった。 ふと手が伸びたからだった。 それなのに、夢中になって読み、ブログまでアップし、し終えたら、マグダラのマリアの祝日!!! 「毎日のミサ」は、祝日の説明を次のように記している。 ”キリストに従う人たちの一人で、キリストが十字架上で亡くなられたときにそばに立ち、三日目の朝早く、復活したイエスと最初に出会った(マルコ16・9)。マグダラのマリアへの崇拝は、特に十二世紀から西方教会に広まった。(『毎日の読書』より)” 「毎日のミサ」は、カトリック中央協議会によって発行されている。 マグダラのマリアが悔い改めた娼婦でないことは、現在、公認されているのだ。 一か月ほど前、『マグダラのマリアによる福音書』を手に取ったときから、マグダラのマリアの祝日に至るまで、 目に見えない何かに導かれていたような気がする。 続きを読む
心に残ること 12月 03, 2023 めまいがあり、歩行器を使っている1人のシスターと同じテーブルだった時のこと。食事が終わると、その人は自分が飲み終えた薬のからの袋といっしょに、同じテーブルの私たち3人のから袋も集めた。薬のから袋は、食堂の片隅にある小さな所定の箱に入れることになっている。小さくても、なにか人助けをしようとしている91歳のシスター。 耳が遠くて、あまり会話に入れないシスター。食事が終わると、さっさと立ち上がり、バイキング用の大テーブルや周辺の片づけをする。大正15年生まれの97歳。「定職」のある97歳とは別人。 「イエス様がここまで導いてくださったのだから、これからも導いてくださるだろうと信じています。」自分の居室がわからなくなることがあるシスターの言葉。 きのうは私たちの修道会のアジア地域Zoomミーティングがあった。一番大きな内容は、フィリッピンで始まったアジア地区合同修練院についてだった。インド、インドネシア、フィリッピン、韓国から、合わせて20人ほどの人たちが来ている。残念ながら、日本人は一人もいない。若いシスターたちの卵は、私たちを元気づけてくれる。 養成担当のアメリカ人のシスターの言葉。 「養成が目指すのは、橋を架けること(=bridge making)。自分と自分自身のあいだ、自分と神さまのあいだ、自分と仲間とのあいだ。そのあいだに橋を架けること。仲間たちはそれぞれ国も違えば、文化も違う。その人とのあいだに橋を架けてつながることです。私も、それを目指します。私自身も変化することでしょう。」 続きを読む
存在する「マリア福音書」 7月 20, 2023 修道院の図書室でふと手に取った本から、「マリア福音書」なるものが存在することを初めて知った。題名は『マグダラのマリアによる福音書』である(副題「イエスと最高の女性使途」山形孝夫・新免貢訳、河出書房新社、2006年。英文原書は2003年刊行)。著者はハーバード大学の神学部教授カレン・L・キングで、古代キリスト教史、コプト語を担当するとある。以下、この書から私が学んだことをまとめてみる。 19世紀後半以降、「マリア福音書」の3世紀初頭のギリシア語写本が2つ、5世紀のコプト語写本が1つ見つかっている。たいていの学者たちは、「マリア福音書」の成立年代を2世紀後半に定めてきた。キング自身は2世紀前半とする。内容が、使途継承、正典などが広く受け入れられる以前のものだからである。 初期キリスト教徒の作品であるという証拠はゆるぎない。これらの文書が今に残されたのは、ひとたびテクストが書き写され、それが使い古されると、それをまた書き写すという仕方で筆記され続けてきたからである。しかし、5世紀以降は再び筆写されることはなかった。 入手されたパピルス写本はわずか8頁足らずで、「マリア福音書」の最初の6頁は失われている。残された「マリア福音書」は復活後の物語で始まる。イエスに愛されるマリアという女性がいた。イエスの母ではない。イエスに愛されたのは、イエスの教えをよく理解するゆえにであった。弟子たちは宣教に出て行くことを恐れている。マリアは、幻に見たイエスから受けた教えを話し、弟子たちを慰め、励ます。それに対して、ペトロが、イエスがこのような高尚な教えを女性に授けるはずがないし、男の弟子たちよりマリアを好んだとは考えられないと言う。泣き出したマリアを弟子のレビがかばい、われわれはイエスに命じられたように宣教に出かけなければならない、と言う。物語はここで終わっている。 「マリア福音書」では、 1.イエスは 神を「善き 方」 と呼ぶ。「父」とは呼ばない。性別されていない。 2. 「人の子」 という呼称はイエスではなく、すべての人のうちにある真の自己を指す。 性差はない。 3. 指導性の根拠 は人の性別ではなく、霊的成熟度とされる。 現在、「マリア福音書」は正典新約聖書に対し外典とされ、顧みられることはほとんどない。しかし、「マリア福音書」が書かれたのは、新約聖書も成立していない時代であった。 続きを読む