見る・見られる

私の住んでいる家の2階の廊下両端に小窓があり、中間に洗面台がある。洗面台で歯を磨きながら、ふと窓の方を見ると、写真のような光景が見える。聖堂の鐘楼の上に立つ十字架の横木の両側に、カラスが一羽ずつ止まっている。(一羽のこともあれば、いないこともある。)カラスはこちら向きのように見える。見られていたのかな、と思ってしまう。

遠藤周作の「満潮の時刻」をずっと以前に読んだことがある。重い肺結核を患う主人公が、大きな手術を控えて病院で過ごす日々を描いている。病室の窓から重病の子どもと介護している両親が見え、子どもがよくなることを願う。両親も子どもも、彼がそんな思いで眺めていることを知らない。主人公は、神も同じように自分を眺めてくれているけれど、気付いていなかっただけではないか、と思い至る。これは著者自身の神体験だったのではないかと思う。「命は満潮時に誕生し、干潮時に死ぬ」という言い伝えがある。作品のタイトルは、主人公の新しい命の誕生を含むのではなかろうか。

洗面台からふと小窓を見て、カラスに見られているのに気づくと、この作品を思い出してしまう。気づかずにいるが、私もまた見守られているに違いない。





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