キンモクセイの香り

昭和19年(1944)9月、私の家族は神戸から母の実家のある京都に引っ越した。神戸より安全と考えたのだろう。昭和20年(1945)になって、京都も空襲を受けるようになる。4月から強制学童疎開が始まる。国民学校(当時の小学校名)4年生だった私は、30人余りの子どもたちと一緒に与謝郡桑飼村のお寺に預けられる。丹後半島の付け根にある辺鄙な地域である。

朝はみんなで本堂に集まり、和尚さんと一緒に「マー・カー・ハンニャー・ハラミダ」とお経を唱えた。学校には素足で30分ほど歩いて通った。いつもお腹をすかせていた。農家の芋ほりの手伝いに行った後、残っていたサツマイモのしっぽを生のままかじった。天気のよい日には、下着を脱いで、縫い目にいる虱を両親指の爪で挟んで殺した。手には栄養失調から疥癬ができていた。ある日、和尚さん、先生たち、私たち全員が本堂に集められ、ラジオの放送を聞いた。大人たちが泣いていたが、私は何のことかわからなかった。放送が終わって、戦争が終わった、と聞かされた。うちに帰れる、と大喜びしたが、すぐにそうはならなかった。

10月に入り、帰ることになった。母が市内の学校まで迎えに来てくれた。一緒に帰った家は、市内だったが、別のところに移っていた。外壁に沿って3本のキンモクセイがいい香りを放っていた。「サナエが毎晩しゃべり続けるので、眠れない」と、母が父にこぼしているのを聞いた。

ここのところ、庭のキンモクセイが満開で、むせるほど香っている。その香りをかぐと、頬の筋肉がゆるむ。私にとって、キンモクセイは終戦の現実の香りである。

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