ペリカン像の由来

20年ほど前のこと、シスターたちの数も減ったので、以前より小さな家に移り、それまでの修道院の建物を学校の寄宿舎にゆずることになった。移動するものと、処分するものに仕分けをしている過程のころ、処分するものが積み上げてあるところを、偶然に通りかかった。そのときに見つけたのが、右写真のペリカンの彫刻像である。40センチほどの高さで、黒い石でできている。もちあげると、とても重い。底面には、Herbe T と彫られており、あきらかに日本製ではない。

ペリカンは餌が取れなかったときなどに、胸に穴をあけ、自分の血を子どもに与えるという言い伝えがある。キリスト教国では十字架につけられたキリストの姿に喩えられたりする。

修道院の最初の建物から出てきたということは、最初にここに住むようになった修道女たちが持ってこられたと思われる。8人の聖心会のシスターたちが静岡県内に移り住んだのは、1952年2月のことだった。8人のうち7人は、すでに東京と関西に存在した修道院からの移動だった。1人は、院長として赴任したアイルランド人のマザー・エリザベス・ダフであった。1951年12月19日、20年間ほど教育活動に献身した上海を出発新年早々に日本に到着していた。

上海には小学校から大学までを運営していた修道会であったが、中国政府によって閉鎖を命じられ、建物は没収された。外国人は国外追放になった。

このペリカン像は、東京と関西の修道院からではなく、マザー・ダフが上海からもってこられたのではないか、というのが私の推測である。ふたたび捨てられることがないように、安心して預けられるところを探している。

ちなみに、上記のシスターたちが属する修道会は、
マドレーヌ・ソフィー・バラ(1779-1865)というフランス人の女性によって、1800年に創立された。彼女が17歳の時に刺繍をした布切れがある。ここにもペリカンの姿が描かれている。十字架と重ね合わされ、ペリカンの象徴を表している。上部の二つのハートは、キリストとその母マリアのものである。剣で刺しつらぬかれたのが、母マリアのハートである。キリストの苦しみによって心を刺しつらぬかれたとされる。

この布切れは、今もジョワニーという町の彼女の生家に保存されている。

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