暁の星なる聖母の絵
20年ほど前、シスターたちの数が少なくなり、手狭な建物に移ることになった時、壁にかかっていた一枚の絵を引き取った。この絵には思い出があった。終戦直後、近所のカトリック教会に通い始めたころ、ミサの終わりに必ず「暁の星なる聖母に対する祈り」が唱えられていた。
「ああ、輝ける暁の星なる聖マリアよ、
御身はかつてさきがけとして地上に現れ、
正義と真理との太陽なるイエズスの
御出現近きを示し給いしものなれば、
願わくは、御身の温和なる光をもって日本国民を照らし、
速やかにかれらの心の暗をひらきて、
永遠の光明なる御子、我等の主イエズス・キリストを
正しく認むるにいたらしめたまえ。アーメン。」
手のひらサイズのカードにこの祈りが記され、裏面には上記の絵が印刷されていた。
この祈りに山本信次郎(1877-1942)という人が関係しているという、うろ覚えがあった。はっきり知りたくなって、調べてみた。男子修道会のマリア会が運営する暁星中学校に入学した彼は、キリスト教にふれ、洗礼を受けた。暁星、海軍兵学校、ついで海軍大学校を卒業後、中佐、大佐、少将へと昇進する。
信次郎誕生のわずか3年前に切支丹禁教令は解かれていたが、キリスト教はヤソ教と呼ばれ、世間では偏見の目で見られていた。1915年から1918年までイタリア大使館の海軍武官としてローマに滞在したときに、マリア会がローマで経営する学校の校長モーリス師とともに、日本のために祈る会を創立した。「暁の星なる聖母に対する祈り」は、モーリス師の作である。イタリアの女流画家フランキ・ムッシーニに依頼して24号位の油絵が作成された。
この絵を小型のカードに複製、裏面に祈りを印刷し、フランスを中心とした各方面に配布した。多くの方々の協力をえて、のちにはドイツ、イギリス、スペイン、ポルトガル、イタリア各国にも広まっていった。
1918年、任務を終えて日本に帰国する直前、信次郎は時の教皇ベネディクト十五世に拝謁し、この祈りを唱える者に、その都度、贖宥(ショクユウ)★が与えられるように願って許されている。
手元にある絵の下には、Stella matutina ora pro nobis(=暁の星よ、我らのために祈り給え)とあり、ベネディクト十五世の署名がある。信次郎が教皇に拝謁した時にもらったものであろう。絵そのものは13㎝×19㎝である。信次郎が教皇の署名をもらった時のサイズなのか。それとも、額縁に入れるサイズに複製したものか、わからない。
信次郎にとって大切な宝物であっただろうこの画像が、どのようにして最初の修道院の建物に来たのだろう。
1952年に静岡県内の修道院を創立したマザー・エリザベス・ダフ以下7名は、最初、不二農園の一隅にある旧岩下邸の日本家屋に住んだ。不二農園は静岡県裾野桃園村の広大な農地で、1914年に岩下清周(1857-1928)が移り住んでいる。長男の壮一(1889-1940)は暁星の卒業生で、在校中に洗礼を受けている。一高、東大で、哲学を学ぶ。1920年、清周は不二農園に近隣の子どもたちのために私立温情舎を設立する。初代の理事長・校長には、清周の長男、壮一が就任した。5年後には司祭に叙階される。
信次郎の弟三郎は壮一と暁星中学の同級生で、壮一が在学中に洗礼を受けたときの代父であった。のちに三郎は壮一の妹雅子と結婚しているので、信次郎と壮一は暁星の先輩・後輩であっただけでなく、姻戚関係でもあった。信次郎は彼にとって宝物であっただろう教皇の署名入りの絵の写しを、信仰を同じくする壮一に送った/贈ったのではなかろうか。不二農園の家は、壮一の実家であった。
マザー・ダフが旧岩下邸に移り住んだとき、その家にこの絵が飾られていたのではないか、というのが私の推測である。
信次郎から壮一へ、壮一からマザーダフへと受け継がれたであろうと思うと、この絵が愛おしく思われる。ムッシーニが描いた原画はすでに失われていると聞いているので、ことさらに思い入れが強まる。
追記
1962年、マザー・ダフの修道生活50年を祝って配られた小さなカードには、この絵が印刷されている。
★カトリック教会で、信徒が果たすべき罪の償いを、キリストと諸聖人の功徳によって教会が免除すること。
参考文献
『父・山本信次郎伝』山本正著
『われらが学び舎 温情舎』温情の灯会編
『不二聖心女子学院 創立50周年記念誌』不二聖心女子学院編