祈りは役に立つ?
「感ずべき御母」祝日前の9日間の祈りも終わった。世界の平和、とくにロシアとウクライナ、パレスチナとガザの平和を願って祈った。でも、なにか効果があったか、少しでも状況は良くなったのか、というと否である。祈りって役に立つのかしら、と疑いが頭をもたげる。自己満足のためのものに過ぎないのかな、とか。
祈りによって神を支配することはできない。それじゃ、何のために祈っているのだろう。いぜん、「波動による認知」で、次のような引用をした。
――この世に存在しているすべてのものは、素粒子によって構成されている。これらの素粒子は、光や音と同じように固有の周波数を発していることが分かっている。波動の伝播性は高く、どこまでも伝播する。――
自分自身や他の人の幸せを自分を超える大いなる方に願うことが祈りだとすると、それは良い波動を自分のなかに生じさせ、遠くまで伝わっていくのではないだろうか。誰に、どこに伝わるのかはわからないけれど、いいエネルギーが必ず伝わるのではないだろうか。
ゴチャゴチャと理屈をこねまわしていたら、ホイベルス神父が書かれた「最上のわざ」という文章を思い出した。
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう――。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること――。
老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために――。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事――。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ――。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために――。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と――。
これを読み返して、気付いた。祈りは、したいからする。コストパフォーマンスを秤にかけてするのではない。心のあふれだ。