投稿
4月, 2025の投稿を表示しています
聖週間と復活祭
- リンクを取得
- ×
- メール
- 他のアプリ
聖週間と復活祭が終わって、やっと日常生活に戻った感じである。濃厚なというか、あわただしい一週間であった。聖土曜日夕のミサが心に残っている。司式司祭が朗々と歌い、しっかりとした足取りで散水をされた。一時間半ほどかかる式で、ふつう私は退屈してしまうのだが、今回はそんなこともなかった。後で聞いたところ、司祭の名はキエサ。89歳になっておられると知ったが、みじんもお年を感じさせなかった。 翌日朝9時の復活祭ミサも大聖堂で行われた。私は大聖堂の後ろの方に座った。長いミサでは、途中でトイレに行きたくなることがあるからだ。クリスマスのミサほどではないが、けっこう大勢の人が参加しており、聖体拝領の行列も長かった。聖堂の後ろに座っていた私は行列の後ろの方になる。司祭の前に行って司祭が手にもつチャリスを見ると、5ミリ四方くらいのかけらが五つ六つ残っているだけ。その一つ二つをつまんでもらった。人生初体験である。多くの聖体拝領があったのは喜ばしいような、ちょっとわたし的にはわびしいような。
イエスと笑い
- リンクを取得
- ×
- メール
- 他のアプリ
ドミニコ会司祭である米田彰男神父による『イエスは四度笑った』(筑摩書房、2024年)を読んだ。同書によると、『ユダの福音』という写本が存在するそうである。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる正典福音書成立直後に書かれたらしい。『ユダの福音』のなかで、イエスが四度笑っている。米田神父は、その笑いが、史的イエスの笑いではなく、異端グノーシス派の思想によるものであることを論証している。 それでは、イエスは笑ったことがなかったのだろうか。同神父は正典福音書に記されていないだけであろうとし、イエスのユーモアをかいま見せる言葉を拾っている。 米田神父著の同上書から私が初めて知ったことがあった。「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」というイエスの言葉の意味である。相手の右の頬を打つには、打つ方は右手の甲を使う。それは上位にあるものが下位の卑しいものを打つ時のやり方である。左の頬を出せば、こぶしで殴るか平手で打たなくてはならない。それは人間として対等であるものに対する暴力である。 イエスの聴衆は虐げられた貧しい人々であった。その人たちに、イエスは反逆する暴力でも忍従でもない、第三の道をすすめた。人として対等に扱われることを求める、第三の道を示した。