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ラザロと金持ち

先週土曜日のミサの福音朗読は、次のような貧しいラザロと金持ちについてのたとえ話だった。 ――できものだらけで貧しいラザロは、金持ちの門前で横たわっている。やがて 二人がなくなると、 ラザロは宴席にいるアブラハムのそばに招かれ、金持ちは陰府(ヨミ)でさいなまれる。( ルカ福音書 16:19-31)―― この福音箇所の朗読のあと、 若いフィリピン人のチャーリー神父が少々ぎこちない日本語で懸命に説教をしてくださった。 「聖書のなかで名前が出てくるのは大切な人物だけです。ラザロという名前が出てくるのは、神さまが貧しいこの人を 金持ちより 大切になさっているということです。」 私には最もピンときたこの箇所の解釈である。チャーリー神父自身、外国人労働者の多い葛西地区で働いておられる。彼が属する聖アウグスチノ修道会の総長であった現レオ14世も、教皇に選ばれる前は貧困層が大きいペルーで20年間働いておられたと聞いている。神さまと同じ選択をなさっているのだろう。 土曜日の夕方はどこの教会でも忙しい時間帯だ。それなのに遠方の葛西から渋谷の私たちの修道院に来てくださる。大半のメンバーは歩行器や車いすを使っていて、外の教会に行くことができない。その意味では貧しい私たちのために、わざわざ遠方から来てくださるのだろうけれど、ありがたいことである。