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「ひとつの火」

新美南吉に「ひとつの火」という作品がある。   わたしが子供だったじぶん、わたしの家は、山のふもとの小さな村にありました。   わたしの家では、ちょうちんやろうそくを売っておりました。  ある晩のこと、ひとりのうしかいが、わたしの家でちょうちんとろうそくを買いました。  「ぼうや、すまないが、ろうそくに火をともしてくれ。」 と、うしかいがわたしにいいました。  わたしはまだマッチをすったことがありませんでした。  そこで、おっかなびっくり、マッチの棒の端の方をもってすりました。すると、棒のさきに青い火がともりました。  わたしはその火をろうそくにうつしてやりました。  「や、ありがとう。」 といって、うしかいは、火のともったちょうちんを牛のよこはらのところにつるして、いってしまいました。  わたしはひとりになってから考えました。  ――わたしのともしてやった火はどこまでゆくだろう。  あのうしかいは山の向こうの人だから、あの火も山を越えてゆくだろう。  山の中で、あのうしかいは、べつの村にゆくもう一人の旅人にゆくあうかも知れない。  するとその旅人は、  「すみませんが、その火をちょっとかしてください。」 といって、うしかいの火をかりて、じぶんのちょうちんにうつすだろう。  そしてこの旅人は、よっぴて山道をあるいてゆくだろう。  すると、この旅人は、たいこやかねをもったおおぜいのひとびとにあうかもしれない。  その人たちは、  「わたしたちの村のひとりの子供が、狐にばかされて村にかえってきません。それでわたしたちはさがしているのです。すみませんが、ちっとちょうちんに火をかしてください。」 といって、旅人から火をかり、みんなのちょうちんにつけるだろう。長いちょうちんやまるいちょうちんにつけるだろう。  そしてこの人たちは、かねやたいこをならして、やまやたにをさがしてゆくだろう。  わたしはいまでも、そのときわたしがうしかいのちょうちんにともしてやった火が、つぎからつぎへうつされて、どこかにともっているのではないか、とおもいます。 以上が全文である。この作品を読むと、なんだか嬉しくなってくる。もしかしたら、私も小さな火をともすことができるかもしれない、その火が次から次へとうつされることがあるかもしれない、と思わせられる。

みんなえいゆう

このごろラジオを聞きながら朝ご飯を食べることがある。先日の放送で、ゲストがリクエストした歌が「みんなえいゆう」だった。すでに知っている人が多いのだろうが、私は初めてだった。フォークダンスでよく使われる曲にのせて、楽しい歌詞が続く。聞いていると、ニヤニヤして、あるある、とか思ってしまう。聞いてみようと思う方は、下記をどうぞクリックしてください。 「みんながみんな英雄」 フルver AI【公式】 - YouTube ゲストのお名前は聞き取れなかったが、座右の銘が「一隅を照らす」だとおっしゃっていた。これを聞いて、なんだかホッとした。コロナの蔓延で、なるだけ外出しないように、なるだけ人との接触を避けるようにとなると、ここのところ、せま――い世界に住んでいる感じがしている。でも、そこだけ照らすことができればいいんだ。そうしたい、と思った。

井上洋治神父の思い出

井上洋治神父について若松英輔氏が書いておられる文章に出会った(『悲しみの秘儀』文春文庫)。 学生時代の終り頃ノイローゼになられた時のこと。若者と新約聖書を読む会を設けておられた井上神父に、彼は出口を失ってどうにもならない心情を吐露した。聖書のどこを読んでも光を見つけられない。そればかりか自分が救われないことだけがはっきりしてくる。そう語り、矛盾したことが述べられている箇所を挙げ、数十分にわたって一人で話し続けた。それに対して、神父 が次のように言ったとのことである。 「今日は、とてもすばらしい話を聞かせてもらいました。ありがとうございます。しかし、ひとつだけ感じたことがある。信仰とは頭で考えることではなく、生きてみることではないだろうか。知ることではなく、歩いてみることではないだろうか。」 「この一言が私を変えた。その日からゆっくりと病は癒え始め、しばらくして、文章を書くようになった」と書かれている。 この場面を想像してみた。数十分にわたって話し続ける若松青年の話を、神父はただ聞き流しておられたのではなかっただろう。全身を傾けて、彼の言葉を受け止めておられたに違いない。だからこそ、青年は数十分も続けて、すべてをさらけ出して、語ることができたのだろう。 「今日は、とてもすばらしい話を聞かせてもらいました。ありがとうございます」 という神父の言葉は、文字通りの、心からの言葉だっただろう。 この締めの言葉ののち、若松青年は新しく歩み始めたとのこと。よかったな、と思う一方、青年を癒したのは、井上神父の言葉だったのだろうか、という疑問が残った。言葉もあるだろうけれど、それに先立つ、井上神父の聴く力にあったのではないかと思われる。 こんなことを思うのは、私が若いころ、似たような体験をしたからかもしれない。終生誓願を立ててからのことだった。修道院の台所の給水機のそばで、私より若くて、まだ誓願も立てていないシスター(修道女)に向かって、くだくだと愚痴をこぼしていた。長く話していたように思う。話し終わった時、その人は、「シスター、おつらかったでしょう」と言ってくれた。その途端、私は壊れたレコードのように、この話を何十回も話してきたことに気づいた。そして、もう二度と繰り返す必要がないだろう、とも。 たぶん、聴く力には、癒す力があるのだろう。

原爆の記憶

終活で、書類などを整理していたら、長い手紙が出てきた。A4の用紙5枚の各ページに48行、小さな文字がぎっしり詰まっている。多分手書きであった英文を、日本人が訳したものである。手紙を書いた人はカナダ人のシスター(修道女)で、日付は1945年9月12日。 1935年に来日していた彼女は、1942年9月、宝塚市小林の修道院から神戸の強制収容所に送られた。帰国を拒否した”敵性国家”の国籍を持つ人たちを、日本政府は強制収容したのである。1944年7月、そこからさらに長崎へと送られた。総勢40人のうち、聖心会会員が16名、ヌヴェール会が1名、ショファイユの幼きイエズス会が7名、他信徒たちであった。 収容所は元神学校の建物で、長崎市街からは丘で隔てられていた。手紙の1-3頁は、抑留生活について書かれている。敗戦になって修道院に戻る前に、シスター達は収容所で体験したことを口外しないと、互いに約束したとのことである。そのため記録は何も残っていない。その約束以前に書かれたこの手紙は、貴重な資料である。 敗戦後、収容されていた人々は解放される。シスターが家族にあてて9月12日に書いた手紙は、収容所の仲間で、帰国が決まった人に託された。2008年、シスターの甥御さんが、お墓参りのため来日された。その折にこの手紙を持ってこられた。それを日本人のシスターが訳したものが、今、私の手元にある。 4-5頁は、原子爆弾が長崎に投下された8月9日、収容所での体験である。中心部分をかいつまんで引用する。 11時に私が刈った草の大きな袋を背負って丘を下りて行ったとき、丁度頭の上を姿は見えなかったけれど、重い爆音で飛行機がゆっくり飛んでいるようでした。(中略)急いでキャンプへ帰るほうが得策だと考え、走り出しました。数歩行くか行かないうちに、恐ろしい爆発があり、あたり一面が黄金色になりました。あたかも太陽が炸裂したかのようで、私はその中で茫然としましたが、次の瞬間近くの竹林に飛び込みました。私は背負っていた刈草の袋の上に横たわり、顔だけが熱さを感じていました。金色の光は数分しか続きませんでしたが、他の飛行機が来るのではないかと思い、刈草の袋で頭と背中を覆いました。何事も続いて起らなかったので、急いでキャンプに帰ってみると、宿舎は大きな被害を受けていました。ある人たちは重症ではありませんでしたが、頭や首や腕が傷つ