真珠を買う商人

修練期を終えて間もなく、アメリカで神学の勉強をする機会をもらった。1968年2月、私は羽田発サンフランシスコ行きの飛行機に乗っていた。アメリカに行くのは初めて、飛行機に乗るのも初めてだった。スカートが足元まである修道服を着て、その下には毛糸編みのペチコートをはいていた。飛行機のなかは暖かくて、途中でトイレに行って毛糸のペチコートを脱いだ。

隣の席の男性とのおしゃべりで、その方が真珠を扱う仕事をしていると知った。聖書にある真珠の商人のたとえ話を思い出した。「高価な真珠を一つ見出すと、持ち物をことごとく売りに行き、それを買う」というたとえである。「そんなものなのでしょうか」とたずねると、「そうですね」という返事だった。

その時以来、このたとえ話についてよく考えたことはなかった。さいきんになって、西経一神父の話を聞く機会に恵まれた。その講話のなかで、このたとえ話を取り上げられた。
「この商人は神さまですよ。あなた自身のことだと思っていたら、大間違いです」
という神父の言葉に、ハッとした。「買う」と「贖う」は同じ語だそうである。はっきりとしてではなくとも、ばくぜんと自分のことのように思っていた。

聖書(マタイ13:45-46)では、天の国がよい真珠を探し求める商人にたとえられている。「天の国」は、名詞ではなく動詞で、神のなさり方を意味すると理解できる。とすると神が私たちを、というか私を、すべてをさしおいて探しに来てくださる。それが神さまのなさり方だ、と理解すべきなのだろう。

私はすべてを置いて修道生活に入った、と頭のどこかで思っていた。けれど、現世的に考えても、すべてをいただいていた。アメリカへの留学だけにしても、そうだ。それ以来現在に至るまで、また現在も、すべてをいただいている。やっと、気付いたところです。


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