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ガーコと神さま

やっと復活祭の日だ。当日に先立つ数日の儀式は、大聖堂で行われた。少々の暖房で暖まらない大聖堂。冷えからまた腸閉塞にならないか、ハラハラしながらの日々だったので、無事復活祭を迎えられてほっとした。 朝食を終え自室に向かう廊下を歩いていると、ガアガアガアとにぎやかな声がする。窓の外を見ると、すぐ近くを8羽くらいのカラスがぐるぐると旋回している。ガーコの家族が増えたのだろうか。窓を開けて、私も「ガアガアガア」と返事をする。 ガーコが来てくれるたびに、嬉しくなる。何をしてあげるわけでもないのに、私を慕ってくれている。商店街を歩いていると、急に近くのビルの上から、ガアガアガアと鳴く声が聞こえる。ガーコが来てくれるたび、私は神さまのことを思いだす。私がすっかり忘れているときも私を見ていてくださる方。ガーコはその方を思い出させてくれる。 ガーコ一は、私が裾野で知り合った一族だと思っている。私の知人たちは、「裾野から東京まで来るはずがないでしょう」と言う。でもカラスの飛ぶ速度は、時速100キロとか200キロとか。そうだとすれば、裾野から東京まで1時間余りで来られるのではないか。 いい友達がいるしあわせを、しみじみ味わわせてもらっている。

背中を押す神

遠藤周作の『落第坊主の履歴書』は、3-4頁の短文を集めた作品である。幼い頃のいたずらや悪童ぶりに、クスッと笑わせられながら読んでいた。本の半ば頃になって、突如「神の働き」というタイトルになり、びっくり。これも遠藤さんならでは、か。 かいつまむと内容は以下のようである。 神というのを二とおりに考えたいのです……。後ろのほうからいろんな人を通して、目に見えない力で私の人生を押して行って、今日この私があるのだということで分かったきたのです。後ろから背中を押しているのが神なのです……。そのように後ろから押しているものと私を存立させる場というものの二つがあって、それを考えかみしめていると、やっぱり神が働いているなという感じが私にはするのです……。 人生を歩むについてはたくさんの選択が可能であったのに、結局ここに来たわけで、これを私は選んでいるところを見ると、意思のほかに、他のものを選ばせない無意識のものあったのではないでしょうか。本能的にこっちのほうがいいなと思って選んでいるのであっても、本能的に選んだというのは何か理由があるわけで、理由を作ってくれたのはその場だと思うから、どうしても場とのつながりということを考えるようになりました。それを働きと言うのですが、私は働きを認めざるを得ないのです。 「背中を押してくれる神」というのは、すんなりと心に入ってくる。自分で選んできた人生と思っていたが、神が後ろから押してくださっていたというほうが、実感がある。

海軍さんの父

数々の重責を担ってきた人だけれど、現在、今日の日付がわからない人がいる。この人が繰り返し話す想い出がある。 「父は海軍さんだった。船に乗っているので、めったに家に帰ってくることがない。たまに帰ってくる日には、私と弟は門の前で待っていて、父の姿が見えると走って行き、父の片手に私、もう一方の手に弟がぶら下がって家に帰ってくるのよ」 お父さんはまもなく戦死。お母さんは早くに病死していて、その後、残されたおばあさんが二人の子ども達の世話をされたらしい。生活も大変だっただろう。幼い頃の幸せな思い出があって、よかったね、と思う一方、どう考えても戦争は残酷だ。 被爆者手帳をもつシスターは、「私たちは身寄りが一人もいないからね、仲がいいの」と言いながら、このシスターをあれこれと手助けする。