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日常生活のミッション

きのう、聖心会日本管区の管区長交代のミサがあった。管区長の任期は3年で、2期が期限である。修道女たちの高齢化のなか、前管区長はほんとうにご苦労だった。渋谷修道院で夜に急病人が出ると、病院まで同伴するのは管区長さんとその顧問の人だったりする。介護職員では病院の手続きなどができないからである。管区全体への配慮のほかに、管区長と顧問が救急隊の役割もしてくださった。新しい管区長さんも、同じようなことになるかも。ありがたいと思う。 きのうのミサでは、司祭の説教も、旧管区長と新管区長の挨拶も、よく聞こえなかった。私の聞こえが少し悪いせいもあるだろうけれど、渋谷修道院聖堂の音響効果が悪いせいだと思っている。スピーカーの音がうまく広がらなくて、音がこもってしまう。私がかろうじて聞き取れた言葉に、「日常生活のミッション」があった。 介護施設にいて、あれもこれもお世話になり、何も人様のお役に立てない。でも、もし神さまが私がここにこのようにいることを望まれるなら、それを受け止めることが私のミッションだろう。

イエスの聖心について

教皇フランシスコの最近の回勅『 ディレクシット・ノス(Dilexit nos=私たちを愛してくださった)』は、イエスの聖心への信心についてである。私たち聖心会にとって大切なテーマなので、少しずつ一緒に読んで、心に浮かぶことを話し合っている。 ーー鹿児島市内にはいくつか教会があって母が教会に行き始めたので、付いていくようになり、26歳の時に洗礼を受けた。そのころ、司祭に叙階された方の記念カードをもらった。「イエスの心をわが心に」と書いてあり、いいなと思った。主任司祭の弟さんが静岡県内の聖心会修道院の敷地内に、 修道院付き司祭のような形で 住んでおられた。「上品な人たちだよ」(?!)と話された。どんな人たちか知りたいと思い、静岡に来た。ーー 5人くらいずつのグループで話し合ったのだが、この人の話が心に残った。修練院の同期だった。90歳に近くなって、初めてこんな話を聞かせてもらった。

いんやく りおさん

修道院の本棚には、いろんな種類の本がある。修道院が購入したもの、個人が購入して読み終えて共用の本棚に入れたものなどなど。その本棚からなにげなく手に取ったのが、いんやくりおさんの本、というか、いんやくさんの言葉を彼のお母さんが書きとったものだった。タイトルは『自分をえらんで生まれてきたよ』である。 いんやくさんは、お母さんのお腹にいるときから不整脈があり、3歳でペースメーカーを埋めこみ、慢性肺疾患があり、10歳でカテーテルアブレーション術を受けている。上記の本は、彼の9歳までの言葉を拾っている。いくつも心に響く言葉があった。下記はその一つである。    神さまがくれたものは、たくさんある。    まず、心。気持ち。いのち。体。    それから、考える、頭。    ぼくは、神さまからのプレゼントなんだ。    だから、自分をたいせつにする。    自分をたいせつにすると、    地球へのおみやげに、なるんだよ。 彼の6歳の時の言葉とある。この本が出版されたのは2012年とあるから、10年あまり以前のことになる。今はどうしていらっしゃるのか、グーグルで検索してみた。 9歳の春、沖縄に移住している。沖縄で缶から三線に出会い、奏者として音楽活動をされているとのこと。「缶から三線(サンシン)」が何かも知らなかったので、調べた。 三線の胴はふつう木材であるが、その代わりに空き缶で作られている。 戦後の沖縄で誕生した。 当時の沖縄は物質不足 で三線に用いる材料がなく、 米軍から支給される食料の缶を胴体に、廃棄された木材を棹に、落下傘のヒモを絃にして三線を組み立てたそうだ。 病気を抱えるいんやくさんが、空き缶から作られた楽器の奏者として活躍されていること、すてきだと思う。「 自分をたいせつにすると、地球へのおみやげに、なるんだよ」という彼に、「たしかにそうですね」と言いたい。

助け合い

私たちの食堂には、厨房に一番近い位置に大テーブルがあり、そこに食べものが置いてある。ほかに小テーブルが4つある。現在、その3つに4,5人ずつ座っている。テーブルメンバーは月ごとにくじを引いて決める。 各自は大テーブルに行き、自分のお皿に取り分ける。二切ずつとか一つずつ、と書いた札が置かれていたりする。 お皿に取り分けた後、自分の席がわからなくなって、戻れない人がいる。そういう時、声をかけて助けるのは、同じテーブルのシスターで、脳梗塞の後遺症で足が不自由な人である。自分の食べ物は、キャスター付き小型テーブルに乗せ、席に戻る。一度座ると、お箸やナイフをもってくるのを忘れたりすると、再び立ち上がるのは一苦労になる。認知症のシスターはそれに気がつき、取りに行ってあげる。 こんな助け合いを隣のテーブルから見ていると、心が和む。

カトリック新聞の休刊

カトリック新聞(以下、カ紙)が3月いっぱいで休刊になる。 高齢化もあって 定期購読者数が減少し、経営的に厳しい状況にあったらしい。 カ紙と言えば、忘れられない出来事がある。 今は何であったか覚えていないのだが、とても悩んでいたことがあった。カ紙の一記事に出会って悩みの答えが見つかり、嬉しくてお礼の手紙を書いた。するとその記事を書いた方からお便りをいただいた。その葉書は、今も大切にとってある。 今後、教会の動向は月1回の広報紙が各教会に配布されるらしい。時代の流れで仕方がないのかもしれないが、心の通い合いもあったカ紙の休刊はとても残念だ。

教皇フランシスコの病状

ここのところネットニュースで、教皇フランシスコの病状が critical(深刻)と伝えられていた。肺炎ということであった。 私たちの修道院では、毎月曜と木曜の10時30分から30分間、霊的読書をする。木曜の朗読は私の担当になっている。30分も朗読しているとのどが渇いてくるが、朗読は認知症予防にもなるとかで、引き受けている。 読んでいるのは、『教皇フランシスコ講話集 1』である。講話のほぼ80%は、「教皇公邸書斎の窓からサンピエトロ広場に集まった信者とともに行った『お告げの祈り』の前に述べたことば」とされている。書斎の窓からなら外気にさらされているだろう。冷たい外気にさらされて、肺炎になられたのではないか。などなど気をまわしていたが、最新のニュースでは、入院は長引いているがcriticalの状態は脱せられた、とのことで安心した。 「神はあなたが大好きなのです。人生に何があろうとも、決してこれを疑ってはいけません。いかなる状況にあっても、あなたはどこまでも愛されているのです。」 使途的勧告『キリストは生きている』112項で教皇はこのように述べている。神のかぎりのない愛のインフルエンサーである教皇。ご健康を祈らずにいられない。