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4月, 2021の投稿を表示しています

3 good things=三つのいいコト

2,3年前になる。病院で順番を待っていた。退屈なので、待合室の書架に置いてあった医療雑誌を手に取った。”3 good things"という記事に目が留まった。眠る前に、その日にあった「三つのいいコト」思い出すと、脳内でハッピー・ホルモンが分泌されるメカニズムが紹介されていた。くわしいことは憶えられなかったが、やってみよう、と思った。寝る前の感謝の祈りになる。 さっそく、やり始めた。ベッドに入ってから三つのいいコトを思い出すのだが、そのために結局一日を振り返る。散歩していて、名前も知らないきれいな花を見つけた;久しぶりのいい天気だった;やらなくちゃと思いながらしていなかったボタン付けをした;などなど。そんなことを思い出していると、お知り合いの方が手造りの食品を届けてくださったのに、すっかり忘れていたことに気づいたりする。何もなかったような一日なのに、けっこう、いろいろある。おわりに「ありがとうございました」と神様に感謝する。 三つのいいコトを始める前から、ふとんに入ったらお腹を「の」の字に60回撫でることをしていた。「三つのいいコト」は、その前にすることにした。このごろは、お腹ナデナデの途中で眠りに落ちてしまったりする。 一日を振り返って過ちなどを反省するのも必要だろうけれど、それは寝る直前でない方がいい気がする。

霊は存在する?

ぼんやりとテレビを見ていた。一人の女性についてだった。15歳のとき、母は娘と夫に「死んでもみんなを見守っているからね」と約束して亡くなっていった。25歳になって、女性は結婚が決まり、母の着物を取り出して、母を思い出していた。その後、買物に出かけていると、父から「大急ぎで帰って来い」との電話。帰ると、「見ろ、見ろ」と父が柱時計を指さす。その針が前後に振れたり、グルグルと回ったりしている。「お母さんだ」と言って録画したものが、テレビで放映されていた。 こういうものを見ると、すぐに、インチキだと思いそうになるが、自分の体験を振り返ると、そうとばかり言い切れなくなる。 40年あまり前のことになる。高齢で京都の病院に入院していた父を、東京から見舞いに行った。戻ってきて、数日後の夜、突然、ガチャンと音がした。足元に私の腕時計が落ちていた。時計のバンドが切れている。鎖が連続してつながっている仕様のバンドで、簡単に切れるものではない。短くするには、つなぎの一部を針状のもので突いて外さなくてはならない。ハッと思い出した。父が時計のバンドがゆるいから、短くしてほしいといっていたのに、忘れて帰ってきていた。その2,3時間後、京都から電話があり、父が亡くなったことを知らせてきた。 一昨年、病気の弟を見舞おうと三島駅のホームに向かう階段を上っていると、携帯が鳴った。弟の娘からで、「たった今、亡くなりました」と知らせてきた。そのまま京都に行き、亡くなった弟と別れをして、その日に帰宅した。翌日、ご飯を炊こうと、炊飯器を見ると、時刻表示が8時で止まっている。現在時刻表示はリチウム電池で動いているから、止まるはずがない。ご飯を炊くためには、取り出してきた取扱説明書を見ながら、表示の現在時刻を訂正しなくてはならなかった。私が三島駅に着いたのは9時頃だった。8時には、私はまだ修道院にいた。 父も弟も、息を引き取る前に、私に会いに来てくれた。 時間と空間を超越する霊。その存在を、私は信じない。体験として知っているから。

名前を憶える

名前を憶える メタセコイアについて新聞記事が載った3月4日、所属していた聖心女子大学キリスト教文化研究所から紀要(『宗教と文化 37号』)が届いた。以下は、そこに載せられた私の文章である。 聖心女子大学初代学長マザー・ブリットの思い出 1954年春、私が聖心女子大学に入学したときの同期生は、およそ120名であった。入学式に続くオリエンテーション・ウイーク中、名札を胸につけるように言われた。その一週間は、新入生ばかりでなく、在学生全員が名札を付け、全員の名前を憶えるようにとのことだった。 その週の最後の日、全学生が図書館の閲覧室に集まった。今は、閉架式書庫になっている場所である。そこで名前をどれだけ憶えたかを競うゲームがあった。全員起立し、自分の周囲を見回して、名前を知らない人が一人でもあれば、座る。次に、立っている人たちが周囲を見て、知らない人がいれば、座る。それを何回か繰り返し、最後に立っている10名ほどのなかに、新入生はいなかった。当時、全学生数は500人位だった。上級生は新入生120人ほどの名前を憶えればいいのだが、新入生には当然無理だった。 次の週から、講義が始まった。一年次生の必須科目に「倫理」があった。週一コマの講義で、学長マザー・ブリットが Where Is Truth という本を用いて教えられた。マザーが戦時中、アメリカに帰国を命じられ、その間に書き上げられたと聞いている。クラス中に、マザーが私たちを名前で呼ばれるのに驚かされた。学生たちに互いの名を記憶するよう求めたマザーは、自身も全学生の名前を憶えておられたのである。「マスーダさん」と呼ばれ、大勢のなかの無名の一人でないことを実感させられた。 十二歳のとき受洗した私は、そのころ、カトリックの教えに疑問を抱くようになっていた。一年が終わるころには信仰を理論的に理解できるようになったのは、「倫理」のクラスのおかげであった。 名前を憶えるだけともいえるが、そこに注がれる心のエネルギーがある。身近な一人ひとりを心にかける第一歩として、マザー・ブリットはそれを実行し、また私たちに求められたのだろう。聖心女子大学校章には小さな文字で UBI CARITAS IBI DEUS と刻まれている。「愛あるところに神います」というこのモットーの、日常的な実践であったような気がする。 最近の私は、

メタセコイアと再出発

  メタセコイアと再出発 残された日々も少なくなり、身辺整理と家事の毎日が続いていて、気が滅入っていた。 そんな時に、メタセコイアに関する「天声人語」の記事に出会った。記事に触発されて、メタセコイアについて確かめたいことを調べ始めた。私が知っているメタセコイアに関する事実は、半世紀以上前のことになる。もうそのことを知らない若い世代の人たちもいるだろう。誰かに知ってほしくなり、どのような形で伝えられるか、思案した。思い付いたのが、ブログだった。気が向けば、覗いてもらえるツールだ。そう考えて、ブログに書き始めた。 書いていると、なんだか元気が出てくる。つぎつぎと書きたいことが浮かんでくる。メタセコイアがくれたエネルギーのような気がする。でも、いい気になってパソコンに向かっていると、ドライ・アイがひどくなって、目が充血する。目と相談しながら、書き続けたい。 例の「天声人語」が載ったのは、3月4日。ちょうど私の85歳の誕生日だった。

浩宮誕生祝うメタセコイア

浩宮誕生祝うメタセコイア 3月4日、朝日新聞の天声人語に メタセコイアについての記事を読んで、エッとなった。主な内容は次のようである。 1941年、三木茂博士が化石のなかに常緑樹ではないセコイアを発見。メタセコイアと命名。1946年、絶滅したと信じられていたメタセコイアが、中国の奥地で生きていることが発見される。米国の専門家が種を譲り受けて、日本に100本の苗木を贈った。 びっくりした。これまで ずっと 、メタセコイアは 洋風の名前だけれど、 ありふれた植物とばかり思っていた。 私が初めてメタセコイアに出会ったのは半世紀以上も前、1960(昭35)年であった。当時私は聖心女子大学学長の秘書をしていた。宮内庁から連絡があり、浩宮誕生の記念に、聖心女子大学にメタセコイアの苗木を贈りたいとのこと。日付は忘れたが、浩宮誕生の年であったから、年度に間違いはない。宮内庁の2,3人の方が持ってこられたな苗木6本は、大学の職員によって構内の敷地に植えられた。受取った学長はメタセコイアのヒストリーなどを知っていたのだろうか。私自身は露知らず、 「生きている化石」と呼ばれたりする 植物であることなど、思いも及ばなかった。 大学の職員たちも私と同様であっただろうと思う。というのは、しばらくして、植えた場所で6本の木が大きくなるのは困るから、と3本を処分してしまっていた。 1年後、再度、宮内庁から2,3人の方が来られ、メタセコイアの成長を確かめたいとのことであった。6本だったのではないですか、との質問に、「場所が狭いので、3本は処分したようです」という私の言葉に、事務長があわてて、「場所が悪いので、別のところに植え替えたのですが、育ちませんでした」と答えた。「処分した」などと軽々しく私が答えたのは、松や杉のようにどこにでもある植物としか思っていなかったからだ。 新聞記事を読んで、「メタセコイア様、お見それしました」という感じがする。 でも、疑問が生じた。聖心大に寄贈されたのは、米国の専門家が日本に贈った100本の苗木の一部だったのだろうか。そもそも100本の苗は、いつ、誰に宛てて贈られたのか。あれこれ調べ始め、 『メタセコイア――昭和天皇の愛した木』(斎藤清明著、中公新書、1995年)という本に たどりついた。 同書によると、 米国の専門家とはラルフ・チェイニー博士で、 現地の種子の第一号