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リンゴの皮から天然酵母

「リンゴの皮で酵母を立てました。それでパンを焼いたら、おいしいパンができたので、ナシの皮とブドウの皮で酵母を立ててパンを焼きました。こちらもおいしいパンになりました。」 これは朝ご飯を食べながらラジオで聞いた話である。「酵母を立てる」という表現も初めて知った。以前、家庭用のパン焼き機で、パンを焼いていた時期があった。ドライイーストを使ってだったけれど、結構おいしいパンが焼けていた。出来上がり時間を設定するタイマーが壊れて、やめてしまっている。 ドライイーストでもおいしいのだから、天然酵母でパンを焼けば、もっとおいしいだろうな、と想像する。それに、大自然が与えてくれるものを、なるだけ無駄を出さないように使い切ることも、すてきだなと思う。 けれど、もっぱら卵かけごはんに納豆で満足している。ここのところ、ごはんのほうがお腹に落ち着くようである。

りんごレザー

りんごの皮やしんなどを乾燥させて粉にしたものを原料の一部に使って、レザーが作れるようになったそうだ。傷のついたりんごや、形が悪くて売れないりんごも材料になる。来年4月から商品化されるとのこと。新聞で知った。 大自然からもらった恵みが少しでも無駄なく使い切られるのは、何より素敵だと思う。 それにしても、最悪の無駄は戦争だ。人間の命そのものが無駄に失われている。この無駄をなくす方法を見つけられないものか。

トラベル・ドクター

101歳一人、96歳二人、95歳一人、94歳一人と80歳の院長の計6人が、東京の修道院から1泊の予定で静岡県内のこちらの修道院に来られた。 一人の高齢者に一人の介護者が付き、移動には専用の福祉車両2台が使われた。 グループ全体は、 日本旅行医学界認定医である トラベル・ドクターが率いられていた。 高齢で、旅行をするなど、何年もできなかっただろう。特にコロナ禍が始まってからは、建物から出ることも、人と会うことも、ままならなかったに違いない。今回の旅を希望するかどうかを年長者順に尋ねたところ、皆さん希望なさったそうである。ずっと以前、こちらに住んだり、来たりしたことがある方たちである。聖堂と墓地を見たい、墓地では納骨堂の中も見たいとの希望があると聞いていた。 1日目は昼頃到着のはずが、東名高速が事故か何かで混んでいて到着が遅れ、2時近くになった。遅い昼食後、聖堂を訪れる。聖堂は建物の2階にある。車いすの方たちが3人いるので、聖堂につながる別の建物から入る。聖堂に着くと、アンサンブル・クラブの生徒たちが演奏で迎えた。 夜は全員こちらの黙想の家に泊まられた。二人の介護者は、交代で起きて、見守りをなさったとのこと。 2日目の今朝、ミサの時に皆さんにお会いできた。ドクターや介護の方たちも参列なさった。ミサ後、朝食前に、皆さんとしばらくおしゃべりできた。 朝食後、一行は墓地に行かれた。納骨堂には、狭い急な階段を降りて行かなくてはならない。一人ずつ順に、支えられながら、歩いて降りられた。納骨堂の椅子に二人が座り、そこでお祈りをする。二人が上に戻ると、次の二人が行く、というふうに順にお詣りをなさった。 昼食後、同行の院長が、介護の方々に感謝のカードを差し上げていた。それから私たちも加わって、集合写真。1時半に出発準備開始。2時、発車。 2日ともにいい天候で富士山も見え、日中は暖かだった。高齢者の方たちはお疲れかもしれないが、楽しんでくださったと思う。私たちも何年ぶりかでお会いできて、嬉しかった。 大きな費用が掛かっているに違いないこの旅行は、ある篤志家のプレゼントだそうである。

A little kindness....

先日、同じ修道院に住む3人で外出し、帰宅するときのことだった。私は腕時計の鎖が切れていたので、タクシーの中で、「途中で降りて、時計屋さんに行くね」と話していた。分かれ道に来て、私は車から降り、タクシーは二人を乗せて修道院へと向かった。 時計屋さんまでの道のりは、15分ほどである。しばらく歩いていると、車が横に停まった。さっきのタクシーで、運転手さんが「駅まで行くので、乗ってください」と言った。タクシーが私のそばを通り過ぎたとしても、さっき乗っていたタクシーだと気づかなかっただろう。彼は私に気づいて、車に乗せ、時計屋さんの近くで降ろしてくださった。私たちの会話を耳にしていたのだろう。とても嬉しかった。 帰宅してからも、心がポカポカしていた。なんだか世の中が少し明るくなった気がしていた。夜になって、今日はいい一日だった、と思えた。そして、"A little kindness goes a long way." という英語のことわざを思い出し、実感した。たしかに、「小さな親切は大きな影響がある」。

心臓がバクバク

ない、ない、ない。どこを探しても、ない。探し物をして、二日目になる。雑用・所用の合間をぬって、机の引出しを引っ張り出したり、本棚のファイルケースを1ページずつ繰ってみても、ない。探しているのは、近々小さなグループでする話のための資料である。たしか、まとめて置いたはずのものが、どこにもない。探し物をするときに頼りにするマックス(=マキシミリアン・コルベ)に、「お願いします」と心の中でいうが、見つからない。もしかすると、最近、蔵書を処分した時に、うっかりいっしょに捨ててしまったのではないか、と思うと心臓がバクバクしてくる。蔵書、書類などなど、すっかり処分したから、話のために別の内容のものを用意するのも困難である。 囚人姿のマックスの絵葉書をケースに入れて、机の上に置いているが、ほかのものに埋もれている。それを取り出して、電気スタンドの前に立てかけておいた。椅子に座り、なにげなく引出しを引いて、手に触れた封筒をもちあげたら、 それ だった。ゾクッとした。マックスがそばに立っているような感じがした。 脳神経学的な説明もできるのかもしれない。どこに置いたのかは、脳のどこかで記録されている。でも、その記憶が取り出せない状態になっている。別の脳波が働くと、その記憶を取り出す回路が開く…とか。 そんな説明はどうでもよくて、私は目に見えない助っ人マックスに感謝している。神様の世界に入った人たちは、マックスに限らず、神様と同じように私たちを助けたいと思っているに違いない。