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9月, 2023の投稿を表示しています

オーさんとカサ・デ・アミゴス

前回のブログで触れた重症だったシスター(通称オーさん)は、院長のお知らせの後、まもなく帰天した。97歳だった。夕食後、みんなで集まって、シスターのために祈った. 飲み物を手渡されたり、車椅子からずり落ちそうになっているのを引き上げられたりするたび、必ず大声で「ありがとうございます」と言っていたオーさん。 オーさんは、教職の資格があったにもかかわらず、教職員を支える助修女として修道会に入会を希望して、生涯、その仕事を続けた。高齢になってから静岡県裾野市に派遣され、日曜には三島教会のミサにあずかっていた。そのうちに、教会でお知り合いになった方たちーー信者でもと看護師さん、定年退職後の男性の信者さんーー、どこで知り合ったのか、教会と関係のない、工業高校の法律に詳しい先生、共産党員の男性などの方々と、カサ・デ・アミゴスを結成した。目的は、在日外国人の援助である。 フード・バンクや事業所から賞味期限切れやそれに近い食料をもらい受け、困窮している家庭に配る、お役所の手続きなどに同伴して助ける、不当解雇などの交渉をする、などなど。仕事はすべて無料奉仕だったが、もらった食料を一時置いておく倉庫を借りるための賃貸料、食料をもらいに行くためのガソリン代などが必要で、もっぱら寄付に頼りながら、活動を続けていた。 カサ・デ・アミゴスの活動が20年続き、お祝いをした。その集いから帰る途中、オーさんは転んで、片方の肩を骨折し、入院したりしている間に、体力を失っていった。そして、東京にある病人のための修道院へ移動になった。 オーさんがまだカサで活動しているころ、ペルー人の女性の息子さんが東京の有名な私立大学に合格した。学費に困っていたので、カサが学費の一部を貸与して、息子さんは無事その大学に入学でき、卒業し、Googleに就職した。大海の一滴かもしれないが、カサは天下のGoogleに貢献している。 カサ・デ・アミゴスは2・3年前、30周年を迎えた。今もその活動は続いているが、活動を続ける人たちも高齢化しつつある。いい活動が続けられるよう、オーさんが天国から支えてくれますように。

103歳の笑顔

きのう午後、「お知らせがあるので、集まってください」と連絡があった。集まる場所に行くと、ちょうどその前の部屋から車いすに乗った103歳のシスターが出てくるところだった。その笑顔をを見て、なぜか私はホッとし、なごんだ。穏やかさいっぱいの笑顔だった。 院長からの連絡の内容は、一人のシスターの容態が悪く、今日の夜かもしくは明日が最後だろうということだった。重い内容を聞いたが、私の心にはさっきの笑顔からもらった穏やかさが続いていた。 同時に、私は、とんがり続けている自分に気づいた。マスクをしていない人、廊下を散歩する人、おしゃべりする人、などを見かけるたび、キッとなっている私。あの笑顔は、鏡のようだった。 あんな笑顔はどのようにして生まれるのだろう。以前、圧迫骨折で入院しているときに、『脳波はなにげに不公平』という本を届けてくださった方があった。そのなかで今でも覚えている一つは、「嬉しいから笑顔になるのか、笑顔をすると嬉しくなるのか」というと、「笑顔をすると嬉しくなる」というのも事実だとのこと。103歳の笑顔は、すべてを喜んで受け止めている笑顔かな、と思う。

助っ人マックス登場

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連日、一人、二人とコロナ発症者が増加していたところ、17日(日)の夕方に、一人の住人と二人の介護者がコロナ発症と聞き、がっくり来た。歯止めがかからない感じだ。マックスを思い出した。なんでも助けてくれるマキシミリアン・コルベ神父。机の引出しからマックス像のはがきを取り出し、机の上において、「どうぞ、お願いします」と祈った。 18日(月)も一人発症。 19日(火)、発症していない人たちの抗原検査があった。誰も引 っかからなかった。 バンザーーイ! 16日(金)夜から全員自室蟄居になっている。その成果があるだろう。でも、マックスが後押ししてくれたと、私は信じている。マックス、ありがとうございます。

コロナ大接近

11日(月)の朝食のとき、同じテーブルの一人が遅れてきた。「あぶら汗が出て・・・」と、鼻声で汗だくの顔で言う。「風邪じゃない?お医者さんに行ったら?」「とにかく、なにか少し食べないと、元気でないし」などと話になった。本人はお昼近くまで休んで、その後、お医者さんに行ったらしい。 夕方になって、介護士さんが私の部屋に来て、「〇〇さんは、コロナでした。シスターは一番近くだったから、自己保護のためにも、マスクをしてください」と言った。「自己保護のために も 」だから、私が感染しているかもしれないことを前提にしている。たしかに、私は食卓で〇〇さんの隣の席に座っていた。前の晩には、彼女につかまって、廊下で長話をした。感染しているだろうと覚悟した。 介護士さんの話では、火曜、水曜の二日間、症状が出なければ、たぶん、感染していないだろうとのこと。この二日間が、なんと長かったことか。今日は、木曜日。今のところ、症状はない。このまま無事でありますように。 コロナをこんなに身近に感じたことは今までなかった。先日、「次回、ワクチン接種をしますか」と尋ねられて、「しなくても・・・」とか返事したけれど、することにしよう。 ここまで書いてブログを公開せずにいたら、14日(木)には二人感染、金曜に一人、土曜には二人と、次々感染者が出た。金曜の夜からは、保健所からの指導で、全員自室で過ごすようにとのこと。部屋を出るのはトイレに行く時だけ。必ずマスクをする。食事は部屋にもってきてもらう。終わったころに、トレイを下げに来てもらう。 介護の方たちの負担が半端なくて、恐縮する。 部屋の中で一人でいると、時間をもてあま余す。本を読むことが多いけれど、目がしょぼしょぼになるから、読書ばかりもしていられないし・・・ 施設内で患者が出ると、そこから十日間この蟄居状態を続けなくてはならないとか。いつまで続くのだろう。

「行け♪行け♪」

ミサや集会祭儀の終わりになると、「行け♪行け♪地の果てまで」と歌いだす人がいる。みんなも合わせて歌いだす。私は地の果てまで行きたくない日もある。なぜ他の聖歌ではなく、いつも「行け♪行け♪」なのだろう。ふと気がついたのは、この人は自由に外出できない。施設内でも、自分の部屋がわからなくなったりすることがあるので、一人で外出してはいけないことになっている。お姉さんが同じ敷地内に住んでいるので、1日おきくらいにいっしょに外出できる。でも、自由に歩き回りたいことだろう。この人の気持を想像すると、「まあ、歌ってもいいか」と思える。 私たちの入浴は、だいたい週2回と決まっている。介護士さんの介助がある。猛暑の夏、介護士さんたちは汗だくで、介助してくださった。1人、この通例に入らない人がいる。毎朝、起きるとすぐにシャワーを浴びる。通常、浴室には鍵がかかっているが、夜勤のスタッフのための浴室があるので、そこを使うらしい。尋ねたことはないが、公認されているようすである。この人から食卓の会話で聞いたのだが、3歳のころ、空襲警報になって爆弾が落ち始め、近くのどぶの中に入れられたそうである。「『お家に帰ったら、お風呂に入ろうね』と言ったらしいけど、馬鹿よね。家は空襲で焼けてしまってるかもしれないのに」と話していた。この話になると、二度三度と繰り返し話す。別の日にもまた同じように。毎朝のシャワーの背後に、こんな記憶があるのかもしれない。 ちょっと変、と思う行動に、それなりのわけがあるとわかると、私は受け止めやすくなる。介護士さんたちは「わけ」があるのを前提に、人をありのまま受け止めていらっしゃるのだろう。

『禎子と千羽鶴』をめぐって

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8月半ばにアメリカ人のシスターからメールをもらった(ルーミーの詩を送ってくれた人とは別の人)。件名は"Remembering Hiroshima"とあって、本文に「毎年8月6日には、あなたと、何年も前に命を失った多くの人を思い出します、『禎子と千羽鶴』という本を持っていて、毎年8月6日にはそれを読んでいます」と書かれていた。 そんな風に広島を思っているアメリカ人がいることに、心が和む思いがした。もしかすると、同じような思いのアメリカ人がほかにもいるかもしれない、と希望も抱かされた。 広島といえば、私の記憶に焼き付いている一風景がある。それに最も近い写真はないかネットで探し、見つけた。草も木も生えておらず、家並みも見えない瓦礫のなかに立つドームである。中学3年のときの修学旅行で行き、見た。 写真は、原爆投下で家族6人を奪われた野田功さんという方が 1945 年秋ごろ 撮った ものだと、中国新聞デジタル( 2022/8/4)にあった。私が見た風景は原爆投下後5年ほどしているが、状況はあまり変化していなかったのだろうか。別の建物の階段に焼け付いた人影も、くっきりしていた。 広島の後、倉敷に行き、大原美術館を見学。グレコの「受胎告知」、ドガの「踊り子」など印象に残った。でも家に帰るまで、すべて模写だと思って見ていた。日本にいい物などあるはずがない、とでも思い込んでいたのか。 広島への修学旅行は、私の戦争戦後の記憶の一コマで、思い出したくもなかった。もちろん『禎子と千羽鶴』も読んでいなかった。今回、アメリカ人も読んでいるのに、と思い、読むことにした。アマゾンで注文しようとしたところ、びっくりした。最初、英語で書かれたらしい。スペイン語、フランス語、ロシア語、ヒンディー語、トルコ語、ドイツ語などに訳されている。 何がこれほど多くの人の心を打ったのだろう?原子爆弾の恐ろしさか。それとも幼い女の子の思いやりの心か。原爆の負の影響は計り知れない。しかし、幼い子の心を受け止める人も、世界中で数知れない。 私は禎子のお兄さんが書いた日本語で読んだ。

心のなかの敵

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私の心のなかに敵がいる。朝起きて、ラジオ体操をしながら、ふと気づいた。ウクライナが可哀そうだ、ウクライナが勝てばいい。テレビのニュースなどを見て思っている。それはそうだけれど、ロシアは? ロシアは戦争に負ければいい、と思っている。私の心のなかでは、敵である。でも、考えてみれば、戦争をしているロシア兵士たちにも、家族があり、子どもたちもいるだろう。どんな思いで戦っているのか。一人ひとり違うだろうけれど、彼らにも恐怖心があるだろう。人を殺すことについて、戦争に対する疑問、などなどを押し殺しているかも。 心のなかで敵を作っている状態は、平和への道ではないだろう。まずは、自分の心のなかの敵をなくすことが、今の私にできることだ。 午後になって、こんなことを書き留めようと窓際のパソコンに向かっていると、カア・カア・カアとカラスの鳴き声がする。目を上げると、目の前の建物のてっぺんにカラスがとまっている。すぐに携帯で写真を撮った。建物頂上の三角の左に見える黒い点がカラスである。しばらくすると、カラスはビルから下りてきて、手前のバルコニーの囲いの上を、ヒョコヒョコヒョコと横切った。 このカラスが裾野のガーコだと、今は確信している。私の心の変化を感じ取ったのか。裾野では二羽、時には三羽いっしょだったのが、一羽だけなのが気になる。捕獲されたのでないといいのだけれど。