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聖週間と復活祭

聖週間と復活祭が終わって、やっと日常生活に戻った感じである。濃厚なというか、あわただしい一週間であった。聖土曜日夕のミサが心に残っている。司式司祭が朗々と歌い、しっかりとした足取りで散水をされた。一時間半ほどかかる式で、ふつう私は退屈してしまうのだが、今回はそんなこともなかった。後で聞いたところ、司祭の名はキエサ。89歳になっておられると知ったが、みじんもお年を感じさせなかった。 翌日朝9時の復活祭ミサも大聖堂で行われた。私は大聖堂の後ろの方に座った。長いミサでは、途中でトイレに行きたくなることがあるからだ。クリスマスのミサほどではないが、けっこう大勢の人が参加しており、聖体拝領の行列も長かった。聖堂の後ろに座っていた私は行列の後ろの方になる。司祭の前に行って司祭が手にもつチャリスを見ると、5ミリ四方くらいのかけらが五つ六つ残っているだけ。その一つ二つをつまんでもらった。人生初体験である。多くの聖体拝領があったのは喜ばしいような、ちょっとわたし的にはわびしいような。

イエスと笑い

ドミニコ会司祭である米田彰男神父による『イエスは四度笑った』(筑摩書房、2024年)を読んだ。同書によると、『ユダの福音』という写本が存在するそうである。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる正典福音書成立直後に書かれたらしい。『ユダの福音』のなかで、イエスが四度笑っている。米田神父は、その笑いが、史的イエスの笑いではなく、異端グノーシス派の思想によるものであることを論証している。 それでは、イエスは笑ったことがなかったのだろうか。同神父は正典福音書に記されていないだけであろうとし、イエスのユーモアをかいま見せる言葉を拾っている。 米田神父著の同上書から私が初めて知ったことがあった。「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」というイエスの言葉の意味である。相手の右の頬を打つには、打つ方は右手の甲を使う。それは上位にあるものが下位の卑しいものを打つ時のやり方である。左の頬を出せば、こぶしで殴るか平手で打たなくてはならない。それは人間として対等であるものに対する暴力である。 イエスの聴衆は虐げられた貧しい人々であった。その人たちに、イエスは反逆する暴力でも忍従でもない、第三の道をすすめた。人として対等に扱われることを求める、第三の道を示した。

本当?

ケニアで30年間働いて、70歳で日本に戻ってきたシスターの話。 ――妹がケニアに来てくれた時、手に水を入れたコップをもって赤道の北側と南側に立った。すると水はそれぞれのコップのなかで反対周りになった。私のコップの水が時計回りだとすると、妹のコップの水は逆回りになる。―― 「どうしてコップの水が動き出すの」とたずねると、「磁気で動き出すのじゃないかしら」という返事。 本当かしら?という感じになる。そのシスターは認知症ではない。嘘を言っているわけでもないだろうし。

桜咲く

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聖心会の修道院で志願期を過ごしていた若い人が、3月いっぱいで会を出た。退会後は、高齢者社会で必要であろう介護職につきたいと、大学の3年コースと専門学校の両方を受験した。両方受かったので、大学を選んだとのこと。すでに大学で英文科を卒業している人である。 若いシスターの誕生を願っていた私にとってはとても残念だけれども、彼女が自分の道を見つけたことをお祝いしたい。

日常生活のミッション

きのう、聖心会日本管区の管区長交代のミサがあった。管区長の任期は3年で、2期が期限である。修道女たちの高齢化のなか、前管区長はほんとうにご苦労だった。渋谷修道院で夜に急病人が出ると、病院まで同伴するのは管区長さんとその顧問の人だったりする。介護職員では病院の手続きなどができないからである。管区全体への配慮のほかに、管区長と顧問が救急隊の役割もしてくださった。新しい管区長さんも、同じようなことになるかも。ありがたいと思う。 きのうのミサでは、司祭の説教も、旧管区長と新管区長の挨拶も、よく聞こえなかった。私の聞こえが少し悪いせいもあるだろうけれど、渋谷修道院聖堂の音響効果が悪いせいだと思っている。スピーカーの音がうまく広がらなくて、音がこもってしまう。私がかろうじて聞き取れた言葉に、「日常生活のミッション」があった。 介護施設にいて、あれもこれもお世話になり、何も人様のお役に立てない。でも、もし神さまが私がここにこのようにいることを望まれるなら、それを受け止めることが私のミッションだろう。

イエスの聖心について

教皇フランシスコの最近の回勅『 ディレクシット・ノス(Dilexit nos=私たちを愛してくださった)』は、イエスの聖心への信心についてである。私たち聖心会にとって大切なテーマなので、少しずつ一緒に読んで、心に浮かぶことを話し合っている。 ーー鹿児島市内にはいくつか教会があって母が教会に行き始めたので、付いていくようになり、26歳の時に洗礼を受けた。そのころ、司祭に叙階された方の記念カードをもらった。「イエスの心をわが心に」と書いてあり、いいなと思った。主任司祭の弟さんが静岡県内の聖心会修道院の敷地内に、 修道院付き司祭のような形で 住んでおられた。「上品な人たちだよ」(?!)と話された。どんな人たちか知りたいと思い、静岡に来た。ーー 5人くらいずつのグループで話し合ったのだが、この人の話が心に残った。修練院の同期だった。90歳に近くなって、初めてこんな話を聞かせてもらった。

いんやく りおさん

修道院の本棚には、いろんな種類の本がある。修道院が購入したもの、個人が購入して読み終えて共用の本棚に入れたものなどなど。その本棚からなにげなく手に取ったのが、いんやくりおさんの本、というか、いんやくさんの言葉を彼のお母さんが書きとったものだった。タイトルは『自分をえらんで生まれてきたよ』である。 いんやくさんは、お母さんのお腹にいるときから不整脈があり、3歳でペースメーカーを埋めこみ、慢性肺疾患があり、10歳でカテーテルアブレーション術を受けている。上記の本は、彼の9歳までの言葉を拾っている。いくつも心に響く言葉があった。下記はその一つである。    神さまがくれたものは、たくさんある。    まず、心。気持ち。いのち。体。    それから、考える、頭。    ぼくは、神さまからのプレゼントなんだ。    だから、自分をたいせつにする。    自分をたいせつにすると、    地球へのおみやげに、なるんだよ。 彼の6歳の時の言葉とある。この本が出版されたのは2012年とあるから、10年あまり以前のことになる。今はどうしていらっしゃるのか、グーグルで検索してみた。 9歳の春、沖縄に移住している。沖縄で缶から三線に出会い、奏者として音楽活動をされているとのこと。「缶から三線(サンシン)」が何かも知らなかったので、調べた。 三線の胴はふつう木材であるが、その代わりに空き缶で作られている。 戦後の沖縄で誕生した。 当時の沖縄は物質不足 で三線に用いる材料がなく、 米軍から支給される食料の缶を胴体に、廃棄された木材を棹に、落下傘のヒモを絃にして三線を組み立てたそうだ。 病気を抱えるいんやくさんが、空き缶から作られた楽器の奏者として活躍されていること、すてきだと思う。「 自分をたいせつにすると、地球へのおみやげに、なるんだよ」という彼に、「たしかにそうですね」と言いたい。

助け合い

私たちの食堂には、厨房に一番近い位置に大テーブルがあり、そこに食べものが置いてある。ほかに小テーブルが4つある。現在、その3つに4,5人ずつ座っている。テーブルメンバーは月ごとにくじを引いて決める。 各自は大テーブルに行き、自分のお皿に取り分ける。二切ずつとか一つずつ、と書いた札が置かれていたりする。 お皿に取り分けた後、自分の席がわからなくなって、戻れない人がいる。そういう時、声をかけて助けるのは、同じテーブルのシスターで、脳梗塞の後遺症で足が不自由な人である。自分の食べ物は、キャスター付き小型テーブルに乗せ、席に戻る。一度座ると、お箸やナイフをもってくるのを忘れたりすると、再び立ち上がるのは一苦労になる。認知症のシスターはそれに気がつき、取りに行ってあげる。 こんな助け合いを隣のテーブルから見ていると、心が和む。

カトリック新聞の休刊

カトリック新聞(以下、カ紙)が3月いっぱいで休刊になる。 高齢化もあって 定期購読者数が減少し、経営的に厳しい状況にあったらしい。 カ紙と言えば、忘れられない出来事がある。 今は何であったか覚えていないのだが、とても悩んでいたことがあった。カ紙の一記事に出会って悩みの答えが見つかり、嬉しくてお礼の手紙を書いた。するとその記事を書いた方からお便りをいただいた。その葉書は、今も大切にとってある。 今後、教会の動向は月1回の広報紙が各教会に配布されるらしい。時代の流れで仕方がないのかもしれないが、心の通い合いもあったカ紙の休刊はとても残念だ。

教皇フランシスコの病状

ここのところネットニュースで、教皇フランシスコの病状が critical(深刻)と伝えられていた。肺炎ということであった。 私たちの修道院では、毎月曜と木曜の10時30分から30分間、霊的読書をする。木曜の朗読は私の担当になっている。30分も朗読しているとのどが渇いてくるが、朗読は認知症予防にもなるとかで、引き受けている。 読んでいるのは、『教皇フランシスコ講話集 1』である。講話のほぼ80%は、「教皇公邸書斎の窓からサンピエトロ広場に集まった信者とともに行った『お告げの祈り』の前に述べたことば」とされている。書斎の窓からなら外気にさらされているだろう。冷たい外気にさらされて、肺炎になられたのではないか。などなど気をまわしていたが、最新のニュースでは、入院は長引いているがcriticalの状態は脱せられた、とのことで安心した。 「神はあなたが大好きなのです。人生に何があろうとも、決してこれを疑ってはいけません。いかなる状況にあっても、あなたはどこまでも愛されているのです。」 使途的勧告『キリストは生きている』112項で教皇はこのように述べている。神のかぎりのない愛のインフルエンサーである教皇。ご健康を祈らずにいられない。

私の名は?

祈っているとき、私はイエス様が私のすぐ隣に座っていらっしゃるような感じがしている。今朝、ふと「イエス様は私を何と呼んでくださっているのだろう?」と思った。「シスター」ではないだろう。「早苗」だと、なんだか上からの目線のようで、そうではない感じがする。「早苗ちゃん」が一番近い。